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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2011年08月01日00時35分掲載
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文化
文学と卒業 村上良太
作家の開高健は海外旅行にしばしばスウィフトの「ガリヴァー旅行記」を携行していた。訳は中野好夫のものだった。「ガリヴァー旅行記」と言えば、少年少女文学全集で卒業してしまって以後、ホンモノを手にすることがない大人が多いと残念がっていた。
「おそらく少年少女時代に名作文庫かなにかで読んだきり諸君はそれでスウィフトを卒業したと思っておられるのではあるまいか。「ガリヴァー旅行記」の第三部と第四部、これほど栄養ゆたかで血も肉もついて、おもしろくてタメになる作品は現代ではまず入手不可能だと思うのだが、どんなものだろう。理性をめざしてひたすら混沌のままつっ走るスウィフトの情熱を現代はまるで博物館のクジラの骨か、恐竜の骨のように眺め、古すぎますよなどとお粗末幼稚な批評で片づけてしまうのは、どうにも私には片腹痛い。文学はファッション・ショウじゃない。ふるいも新しいもない。進歩も退歩もない。わかりきったことじゃないか。」(中公文庫刊「衣食足りて文学は忘れられた!?」より)
ガリヴァーと言えば、すぐに思い浮かぶのは小人のリリパットの国に漂流して手足を縛られて横たわったガリヴァーの姿だろう。これは「ガリヴァー旅行記」の第一部で、少年少女文学全集に収録されるのはこの話である。だから、この部分ばかりがイメージとして再生産され続けることになる。
一方、開高健が面白いと言っている第三部と第四部はそれぞれ、天空の都市ラピュタの話と、馬の国フウイヌムの話である。ラピュタの話は宮崎駿のアニメ作品とは無関係で、天空の都市が大地で生きる人々を支配している話である。第四話に登場する馬の国の主人である馬たちは平和を好み、人間よりも理想に近い存在としてガリヴァーの目に映る。そこではヤフーという悪意を持ったサル的動物も暮らしている。英国に無事帰国した後、ガリヴァーは馬小屋に郷愁を感じるようになる。これらの天空都市の住民やヤフー(サル)は英国人を風刺したものと取られている。しかし、開高は「ガリヴァー」の魅力はそれだけではないという。
「現代人は現代政治とくらべてヤフーその他の住人たちの汚濁と混迷がまったくそのままで、アテこすられ、思い当たるフシがあるからおもしろいということだけではなさそうである。そんなひくい安直なものではない。いっさいがっさいの人間をボロくそ、くそミソに嘲罵、批判して絶望に沈み、果てしない問いをだしながら、いっぽう理性の国、馬の国の清澄を描くことで解答をあたえているから立派なのだというだけでもなさそうである。そのこと自体はたいへんなことではあるけれど、それだけではとてもあの魅力を説明できるものではない。」(同上)
思い出されるのは開高がしばしば日本の新聞の風刺漫画を批判していたことである。絵が下手だという以上に、笑いが現実と1対1で照応していてそこにナンセンスがない、と言っていた。開高は笑いが単なる現実の風刺を越えたナンセンスの領域に昇華されなければ本物の文学ではないと考えていたフシがある。スウィフトの「ガリヴァー旅行記」はまさにその達成だと考えていたのではないか。
開高が「文学はファッション・ショーではない」と指摘した傾向は今日ますます進んでいる。30年近く前だと、書籍は国内で年間2万点前後の出版点数だったが最近は7万点を越えている。これだけの本が書店の店頭に並べてもらおうとひしめき合っているのである。新聞の書評欄も新刊書の批評が中心となっているため、古典はますます視界から失われつつある。古典ばかりか20年、30年前の本でも同様である。
少年少女文学全集で卒業されてしまう名作はほかにもある。セルバンテスの「ドン・キホーテ」はその筆頭だろう。「ドン・キホーテ」は聖書を別にすれば世界最大のベストセラー本である。しかし、岩波文庫では6巻もある大作であり、読了は容易ではない。特に日本はどちらかと言えば俳句や短編小説が好まれる風土である。さらに海外の人々と文学の話をする機会も乏しかった。そうした事情も手伝い、日本でドン・キホーテと言えば風車に突進する頭のおかしな理想主義者ということになっている。
しかし、こうした一面的で固定されたドン・キホーテ像は文学とは別物の何かである。「ドン・キホーテ」を翻訳した牛島信明(1940−2002)氏によれば、ドン・キホーテの面白さは「あいまいさ」にある。たとえばドン・キホーテ演技説というのがある。ドン・キホーテは狂気を自ら意識して演じていたという説である。牛島氏も演技説を買っているが、しかし、本当に演技していたのかどうかははっきり書かれていないところにセルバンテスの味があるのだという。
セルバンテスは万事にわたって、神の視点から現実をこうだと決めつけて書くことがなかった。なるほどドン・キホーテが暮らしていた村の名前も不明である。我々が新聞を読んで真相はどこにあるのだろう、と考えるのと同じである。現実を認識しようとしたときに我々が感じる曖昧さとその味わいに価値を置いた点にこそ、「ドン・キホーテ」が世界初の近代小説と呼ばれる所以がある。「ドン・キホーテ」はシデ・ハメーテというモーロ人(イスラム教徒)が書いた遍歴の騎士ドン・キホーテの伝記をセルバンテスが発見し、それをもとに読者に語りかける体裁になっている。この伝記本には欠落部分もあるらしい。だから、作者のセルバンテスに、ところどころ不明な点があってもおかしくないという構造なのだ。
こうした仕掛けに加えて、ドン・キホーテは前半と後半に分かれており、後半になると、前半の冒険をつづったドン・キホーテの伝記がスペイン中に広がっており、後半の話に出てくる登場人物たちもドン・キホーテや従士のサンチョ・パンサ、さらにはドン・キホーテの思い姫であるドルシネアのことも本を読んで知っている。つまり、後半ではドン・キホーテたちは有名人となっており、周囲の人々は娯楽の為にドン・キホーテに「冒険」を期待するようになる。ここで現実と文学が重層的に響きあう。こうした錯綜する現実と格闘する騎士と従士の会話に魅力がある。
以上のことはたいてい、牛島氏の受け売りなのだが、牛島氏はドン・キホーテの味わいをもっと知ってもらおうと、その翻訳に命を懸けた。永田寛定、会田由といった先駆者への恩恵を忘れることはなかったにせよ、彼らの解釈の誤りを厳しく指摘していた。微妙であっても小さな誤訳が日本人の「ドン・キホーテ」観を誤らせるからだ。これは牛島氏の「反ドン・キホーテ論〜セルバンテスの方法を求めて〜」(弘文堂)の中の「「ドン・キホーテ」の最も難解な一節」で触れられている。 そうした牛島氏の厳しい姿勢は予想以上に消耗を招いたのではなかろうか。牛島氏は岩波文庫から翻訳全六巻を出したのち、間もなく亡くなっている。岩波文庫で「ドン・キホーテ」の牛島訳が出たのが2001年で、亡くなったのは翌2002年である。
こちらの「ドン・キホーテ」となると、そう簡単に卒業できないばかりか、一生つきあうことになりそうだ。
■「反ドン・キホーテ論」(牛島信明著 弘文堂)
「結局ドン・キホーテは、おのれの生を意志の力でもって非日常な次元に置き、自分を魅惑し、虜にした遍歴の騎士道をこの世で実践しようとしている、言い換えれば、芸術作品のごとき生を生きようと努めているのである。」
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