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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年09月14日21時21分掲載
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国際
【アフガニスタンで何が 2002-2006回想①】 谷山博史
Whats have happened in Afghanistan? 2002-2006Reminiscence
アフガニスタンがにわかに脚光を浴びるようになりました。私が現場にいたのは2002年の7月から2006年の10月。その後は東京でJVCの責任者としてずっとアフガニスタンを見てきました。が、やはり、実感としてアフガニスタンの社会や政治の機微を感じられたのは現場にいたときです。2002年から2006年は転げ落ちるように治安が悪化した時期でした。対テロ戦争の勝利が喧伝されていたアフガニスタンで何が起こっていたのか。もうだいぶ前の話ですが、当時のことを現場証人として書いておくことは、これからのアフガニスタンにどう向き合うのかを考えるうえで意味があると思うようになりました。何回かにわけて共有したいと思います。時間がある時にでも読んでみてください。
◆2002年の風景
私は2002年の7月JVCの事務局長の職を辞してアフガニスタン代表としてジャララバードに赴任しました。ジャララバードはナンガルハル県の県都であると同時に東部の中心都市です。パキスタンの首都イスラマバードから西へ300キロ、アフガニスタンとパキスタンとの国境の有名なカイバル峠を越えて陸路で移動します。私がアフガニスタンに駐在していた2006年10月までは、アフガニスタンに入るにはいつもこの陸路のルートを使っていました。その後治安が悪化したために陸路でのアフガン入りはできなくなりました。
駐在した当初は今から考えると別世界のようでした。ジャララバードの町を1人で歩き回ることもできれば、当時行なっていた巡回診療活動で村々を巡回するのにもなんら危険を感じることはありませんでした。その頃一緒に活動していた看護師の上住純子さんも日ごろのストレス解消のためにバザールでの買い物を楽しんでいました。さすがに保守的な地方都市では外国人の女性が1人で行動すると衆目を集めるので、スタッフの男性が同行していましたけれど。それでも現地の女性と同じ服装をし、男性に馴れ馴れしく接しなければ安全だったのです。
◆私たちも狙われている
状況が変わり始めたのは2003年に入ってからです。このころイラクに対するアメリカの攻撃が日程に登っていました。アフガニスタンに続いて同じイスラムの国にアメリカが攻撃をするということが、世界中のイスラム諸国で反米感情を刺激していたのです。2003年の1月、アフガニスタンではタリバーンやアル・カイーダ、さらに反米急進イスラム勢力のヘクマチュアルがこうした世論を背景にアメリカに対する聖戦を表明しました。それらの声明にはアメリカのみならず、アフガニスタン政府、国連に加えてNGOや外国人一般に対しても攻撃を加えると明言されていました。
タリバーンが最後の拠点カンダハールを失って1年たち、戦闘能力を徐々に回復していたのです。この時から年を追うにしたがって治安は悪化していきました。それにしてもNGOが反米・反政府武装勢力の明確な攻撃対象になるというのは私には衝撃でした。10年前和平合意の直後のカンボジアで活動していたときは、NGOは中立とみなされていたために安全を守る方法はNGOであることをアピールすることでした。車両で移動するときは政府や軍の車両と間違えられないように白地にNGOのロゴを記した旗を掲げて移動するのが常でした。しかしアフガニスタンではNGOは武装勢力には中立とはみなされません。したがってNGOであることも、外国人であることも隠すように隠密の行動をとるしかなかったのです。
◆悪化する治安
2003年以降アフガニスタンの治安は悪化の一途をたどっています。アフガニスタン政府軍や駐留する外国軍との戦闘あるいは反政府武装勢力の襲撃による犠牲者の数は04年850人、05年1400人であったのが、2006年には4000人、07年には8,0000人に達しました。南部の諸県の治安が特に悪く、カンダルハル県では2006年に入って9月の時点で40件の自爆襲撃があり、100人以上の人が亡くなっています。襲撃は外国軍人とアフガン政府関係者のみならず、NGOや外国人一般にも向けられています。 南部ヘルマンド県では、2005年11月から2006年3月にかけての4ヶ月に50人もの郡部の政府職員が暗殺され、県中心部を除く郡部の行政は麻痺に近い状態になっています。ヘルマンド県は2005年末からアメリカ軍を引き継いで英国軍が4,000人あまりの兵力を用いてテロ掃討と行政建て直しミッション始めましたが、形勢は悪くなる一方です。同じく南部のザブール県でも政府は郡部を掌握できていません。この傾向は南東部にも派生し、ガズニ県などの諸県ではタリバーンが数郡の支配権を掌握しています。
◆点から面へ
2006年夏NATOの現地司令官はタリバーンは予想したよりはるかに強いと言い、現在のNATO兵力18,500人に加えて2,500人の増派が必要だとしています。しかし兵力を増強すればテロ掃討作戦が成功するというものではありません。2006年9月11日のAPP配信に、ヘルマンドでの作戦に従事していた英軍大尉が辞職の際に行った作戦に対する批判が載っています。「家を壊され、息子を殺された人々はすべてイギリス軍の敵になってしまっている」と。英軍が南部に展開した当初は政府の掌握できないヘルマンド県の北部を囲いこめばよかったのに、住民を敵に回したために全県で反英活動に対応しなければならなくなったとも言っています。さらに「村々を空爆したり、機銃掃射する米軍とは違う方法を取るはずだったのが、米軍と同じになった」とも。
想像してみてください。その当時行われていたアフガニスタンでの対テロ戦争はタリバーンを追い出した直後の状況とは一変しています。米軍やアフガン軍閥の協力者がタリバーンの残党を見つけると戦闘機による空爆と歩兵による追撃で蹴散らすというような生易しいものではありません。タリバーンと米軍や英国を初めとする他の連合軍の部隊が郡部の支配権をめぐって前面衝突する白兵戦なのです。まさに戦闘は点から面へと拡大しました。BBCの放送で貴重な映像を見ました。銃声や爆音のとどろく中、英兵が怯えた表情でこうつぶやいていました。「俺たちはどこにいてもタリバーンに見られている」と。
◆パンジュワイの悲劇
2006年9月カンダルハル県のパンジュワイ郡で米英連合軍とアフガン国軍20,000人を投入した大規模なタリバン制圧作戦が行われました。郡全体を囲い込んで一気に殲滅しようとしたのです。この戦闘で100人以上の村人が犠牲になり、7,000人から10,000人が避難民になったと言われている。このとき連合軍は住民に退避するように警告を発したといいますが、アフガン赤新月社の現地スタッフはあまりに警告を発するのが遅すぎたと言っている。
この事件の1ヶ月後、ナンガルハル県ホギャニ郡がもめていました。ホギャニ郡の郡長と警察署長が学校放火事件の現場に視察に訪れた際に仕掛け爆弾で殺されたばかりでした。タリバーンが浸透し始めていたとも言われてもいました。県知事のグル・アガ・シェルザイは郡の長老を集めて警告を発したのです。もし郡の治安が良くならなければパンジワイでやったと同じ作戦をするぞ、と。これがホギャニの人々の気持ちを激昂させました。特に若者の憤慨は激しかったのです。もしホギャニでパンジュワイのようなことが行われればナンガルハル県一帯で反米・反政府活動に火がつくのではないか。私はそのことを恐れていました。今でもその気持ちに変わりはありません。
◆嫌われるアメリカ軍
私の周りにいるアフガン人の米軍に対する反応に変化がみられるようになったのは2003年に入ってからでした。それまでアメリカをよく言う人はいなくとも、表立って非難する人は多くありませんでした。アメリカは嫌いでもアメリカ主導の復興にはやはり期待を持つ人が多かったとも言えます。時がたつにつれて復興も進まなければ治安もよくならないことへの苛立ちに加えて、罪のない一般の人々への誤爆が後を絶たない上、米軍の「テロリスト」の捜索の仕方がアフガン人の誇りを傷つける無思慮なものであるために反発を露わにすることが多くなったのです。
2002年9月コースト県で起こったアフガン女性による米兵射殺事件は一つの象徴的な事件です。アル・カイーダとタリバーンの捜索のためにコースト近郊の村を回っていた米兵が男性不在の家に侵入し、女性のベールを一人一人めくって顔を改めていたとき、若い女性が銃で米兵を2人撃ち殺しました。パシュトゥーン人にとって、家主の同意なしに家に入り込むというのは許しがたい侮辱行為です。加えてこの場合女性だけの家に侵入し、顔を隠そうとする女性のベールを力ずくではがしたのです。外部の男に女性が顔を曝すことは恥辱とみなされているのです。この女性のしたことを非難するアフガン人はパシュトゥーン人に限らず多くはないでしょう。逆にこのような事件があるたびに米軍に対する反発は深くアフガン人の心に刻印されるでしょう。
◆いかなる法にも従わない米軍
一方タリバーンやアルカーダ一味という理由で逮捕、連行されたものは後をたちません。彼らは逮捕の根拠も告げられなければ、家族との面会もできず、裁判を受けることもできません。ガンタナモやバグラムの米軍基地に収容されているアフガン囚人の扱いは前時代的野蛮の極致です。一日中手錠や足枷でつながれ、頭陀袋をかぶせられ、毎日拷問のような取調べがあります。つまり囚人にも保障されるべき人間として最低限の人権も保障されていないのです。
ブッシュ大統領が「対テロ戦争」という国際法に規定のない戦争を始めてから、世界の常識は一転してしまいました。テロリスト相手の戦争は国際法でいう戦争ではないのだから先制攻撃も許される。テロリストの囚人は戦争の囚人ではないので人道的な配慮は必要ない。さらにテロリスト容疑者は刑法でいう犯罪容疑者ではないので刑事訴訟法の手続きはなしに収監できる。アフガニスタンでの米軍は「対テロ戦争」という超法規的な戦争の性格を日常の行為においても演じ続けているのです。
◆「母親がアメリカ兵に撃たれた」
2005年4月 日の深夜JVCのアフガン人スタッフのハヤトラから突然電話がありました。電話口のハヤトラは明らかに動揺していました。それもそのはずです。彼の母親がタクシーで移動中米軍に撃たれどこかに連れて行かれたからです。これは大変なことになったと思いました。もし母親が死んでいたらハヤトラの一族は黙ってはいないでしょう。
母親はナンガルハル県南西部ホギャニ郡のザワ村の家から親戚のいるワジール村に孫と一緒にワゴンタイプの乗り合いタクシーで移動していました。民家が疎らに点在するだけの砂漠の一本道のようなところです。前方に米軍の駐屯所が見えるあたりで、少しはなれたところで爆発音のような音が聞こえました。その直後前方の駐屯所と後方に迫ってきていた軍用ジープからタクシーめがけて撃ってきたのです。ハヤトラの母と男の乗客2人が重症を追いました。米兵はタクシーにまで乗り込んできて撃とうとしましたが、女性がいることに気づき謝って民間人を撃ってしまったことを知りました。慌てて負傷者を収容し、ヘリコプターでバグラムの米軍基地内の病院に運びました。しかし、母親が病院に連れて行かれたと家族が知ったのはだいぶ後になってかれで、その時点ではどこかへ連れ去られたとしか考えなかったのです。
◆「もう死んでいるかもしれない」
この話を聞いて私は私の知っている限りの知人のネットワークを使って母親の安否を知ろうとしました。そのネットワークには軍の人道援助の問題で交渉していたカブールの連合軍の調整官やナンガルハル県駐在の米軍の軍人も含まれていました。翌日の昼にはザワ村からハヤトラの父親が事務所を訪ねてきました。ザワの村長をしていたことのある人で、風格のある典型的なパシュトゥーの長老といった風貌をしています。彼が語った言葉がとても印象に残っています。「妻はもう死んでいるかもしれない。それは仕方がない。人はいつかは死ぬものだ。しかし米軍がなぜ妻を撃ったのかそれだけは知りたい。」
彼が帰って1時間もしないうちにUNAMAジャララバード事務所のヘラン・ソングから第一報が入りました。ハヤトラの母は他の2人負傷者と一緒にバグラム基地の病院にいるということ、3人とも命に別状はないとのことでした。それから一週間の間にこの事件のレポートをNGO関係者に回したり、ジャララバードのアフガニスタン独立人権委員会を訪ねこの事件の調査を米軍に働きかけるように依頼したりしました。人権委員会の所長は私たちの話を聞いて同情を示しましたが、ポツンとこう言いました。「米軍は何を言っても聞かない。」
◆米軍との交渉
5月のある日私は内務省の会議室で開かれた連合軍とNGOの会議の席上にいました。この会議の主要テーマは連合軍による人道援助の問題点についてでしたが、事前にホギャニでの誤射事件も議題に上げてもらっていました。私はこの事件の調査と謝罪、補償を求め、同時に他の誤射・誤爆事件も含めた犠牲者に対する補償のガイドラインを示すように要求しました。会議で司会を務めた英軍のサイモン・オーエン中佐の発言は注目に値します。かれはこういったのです。「このような事件は日常茶飯事だからなあ、いちいち調査をしている余裕はない」。
そうです、対テロ戦争に犠牲はつきものなのです。対テロ戦争の崇高な目的の前には無実の民間人が何人死のうと連合軍は責任を負う必要はないのです。犠牲者や犠牲者の家族には説明も謝罪も補償もなければ、そうした正当な権利を訴えるすべもないのです。だとすればかれらにどのような手段が残されているでしょうか。ハヤトラの弟はバグラムの病院でずっと母に付き添っていました。面会がかなうまでには相当不愉快な目にもあったようです。あるとき連合軍との会議の報告を受けた彼は、「テロでもなんでもやってやる」と叫びました。もちろん母親は命をとりとめ回復したのでそんなことはありませんでしたが、それをきいて私は想像しました。この国の何千、何万という人が同じようなことを口にしているのだと。どれだけの若者たちがこうした怒りに突き動かされてタリバーンに参加していったかと。
# 写真はジェララバード市内を巡回すること米軍の車両
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町を巡回する米軍車両





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