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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2024年07月30日22時14分掲載
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文化
野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行11》鉛山鉱山の朝鮮人連行者 鹿角軍小坂町十和田
鉛山鉱山が発見されたのは1665年。操業は長い間中止されていたが、昭和に入り再開された。戦争が始まり、必要になったのだろう。この鉱山に朝鮮人が連れてこられたのは、旧厚生省の文書では1945年7月3日。敗戦まじかである。坑口や鉱石を運んだトロッコのレールは今も残っている。(大野和興)
敗戦の直前に41人が来山
発荷峠から下って十和田湖に着き、西湖岸の道を車で10分ほど走ると、左側の林の中に旧鉛山鉱山の木造の古びた鉱山事務所と、坑内から流れ出る廃水を処理している財団法人•資源環境センターがある。廃坑に向かうと、センターの嘱託で沈殿池を管理している人が、「上からの許可がないと旧鉱山に行けない」と拒否。調査団を設立して調査をしてから始めのことだった。いくら説明しても拒否、強引に入山した。
鉛山鉱山は1665(寛文5)年に発見され、藩政時代は経営者が何回も変わったものの、稼行は続けられた。明治期には小坂鉱山などで経営したが、第一次大戦後の不況で中止。昭和期に再開され、1944(昭和19)年に大同殖産が買収したが、国立公園なので浮遊選鉱ができず、24キロ離れた鹿角市大湯に浮選鉱場を設け、選鉱したのをトラックで運んだ。
旧厚生省の調査に鉛山鉱山が提出した書類によると、朝鮮人連行者41人が来たのは1945(昭和20)年7月3日で、全員が自由募集による雇用となっている。飯場は十和田湖の近くに建てられ、一緒に働いた日本人の証言では、「飯場は木の柵で囲まれており、作業現場まで歩いて往復していた。着ているのは白の切れたシャツだったが、飯場には入れなかったので食事などはわからない」という。
鉱山が旧厚生省に提出した資料には、敗戦時の朝鮮人は41人で、死亡者•負傷者•逃亡者はなく、帰国者40人とある。1人が不足しているほか、帰国したのは翌年の2月25日となっており、名簿も出身地などは17人には書かれているが、残りの24人は白紙である。
坑口や鉱石を運んだトロッコのレールは今も残っており、高く積んだズリに登ると十和田湖が広く見える。
参考文献 (1)『朝鮮人労務者に関する調査』1946年 (2)「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」第47号2006年
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鉛山鉱山坑口付近
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