・読者登録 
 
・団体購読のご案内 
・「編集委員会会員」を募集 
 
   
  橋本勝21世紀風刺絵日記 
   
  
   
   
  
   
   
  
   記事スタイル 
   
・コラム 
・みる・よむ・きく 
・インタビュー 
・解説 
・こぼれ話 
   
  
   特集 
   ・文化 
・欧州 
・反戦・平和 
・国際 
・入管 
・市民活動 
・政治 
・イスラエル/パレスチナ 
・環境 
・難民 
・みる・よむ・きく 
・アジア 
・核・原子力 
・アフリカ 
・医療/健康 
・スポーツ 
  
・沖縄/日米安保 
   
  
   提携・契約メディア 
   ・AIニュース 
  
  
・司法 
・マニラ新聞 
  
・TUP速報 
  
  
  
・じゃかるた新聞 
・Agence Global 
・Japan Focus 
  
・Foreign Policy In Focus  
・星日報 
   
  
   Time Line 
   ・2025年11月03日 
・2025年11月01日 
・2025年10月31日 
・2025年10月30日 
・2025年10月27日 
・2025年10月26日 
・2025年10月25日 
・2025年10月21日 
・2025年10月17日 
・2025年10月11日 
   
  
   | 
  
  | 
  
   
   2024年07月30日22時14分掲載
    無料記事
    印刷用
   
    
   
   
   
文化
   野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行11》鉛山鉱山の朝鮮人連行者  鹿角軍小坂町十和田
    
   
    
     
      
       鉛山鉱山が発見されたのは1665年。操業は長い間中止されていたが、昭和に入り再開された。戦争が始まり、必要になったのだろう。この鉱山に朝鮮人が連れてこられたのは、旧厚生省の文書では1945年7月3日。敗戦まじかである。坑口や鉱石を運んだトロッコのレールは今も残っている。(大野和興)
 
  敗戦の直前に41人が来山
   発荷峠から下って十和田湖に着き、西湖岸の道を車で10分ほど走ると、左側の林の中に旧鉛山鉱山の木造の古びた鉱山事務所と、坑内から流れ出る廃水を処理している財団法人•資源環境センターがある。廃坑に向かうと、センターの嘱託で沈殿池を管理している人が、「上からの許可がないと旧鉱山に行けない」と拒否。調査団を設立して調査をしてから始めのことだった。いくら説明しても拒否、強引に入山した。
   鉛山鉱山は1665(寛文5)年に発見され、藩政時代は経営者が何回も変わったものの、稼行は続けられた。明治期には小坂鉱山などで経営したが、第一次大戦後の不況で中止。昭和期に再開され、1944(昭和19)年に大同殖産が買収したが、国立公園なので浮遊選鉱ができず、24キロ離れた鹿角市大湯に浮選鉱場を設け、選鉱したのをトラックで運んだ。
   旧厚生省の調査に鉛山鉱山が提出した書類によると、朝鮮人連行者41人が来たのは1945(昭和20)年7月3日で、全員が自由募集による雇用となっている。飯場は十和田湖の近くに建てられ、一緒に働いた日本人の証言では、「飯場は木の柵で囲まれており、作業現場まで歩いて往復していた。着ているのは白の切れたシャツだったが、飯場には入れなかったので食事などはわからない」という。
   鉱山が旧厚生省に提出した資料には、敗戦時の朝鮮人は41人で、死亡者•負傷者•逃亡者はなく、帰国者40人とある。1人が不足しているほか、帰国したのは翌年の2月25日となっており、名簿も出身地などは17人には書かれているが、残りの24人は白紙である。
   坑口や鉱石を運んだトロッコのレールは今も残っており、高く積んだズリに登ると十和田湖が広く見える。
  参考文献 (1)『朝鮮人労務者に関する調査』1946年 (2)「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」第47号2006年 
      | 
     
    
   
   
   
  
    
   
    
   
    
   転載について
    日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
   
  
    印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
   
 
  
   | 
  
  | 
  
   
    
   
 
 
鉛山鉱山坑口付近
  
 
 
周辺地図
  
 
  
    
  
 
  
 
  
 
  
 
  
   
  
   |