陳桂棣・春桃『中国農民調査』の拙訳書(文藝春秋)が世に出され一定の評価を受けたが、このことにわが中国の友人たちが密かな反感を抱いていたことを最近知った。北京の友人は言った。「農民の問題はもう過ぎ去りました。誰も関心を持っていません」。流行らないってことか? 8月の北京五輪を控え、経済は依然高成長を維持しているからだろうか。だが、この本で明らかにされた農民の窮状は改善されるどころか悪化する一方である。エイズの蔓延もそのひとつ。世間の無関心と当局の迫害のなかでエイズ予防の最前線で戦いつづける80歳の女医、高耀潔さんを知ってほしい。(納村公子)
▽「中国を悪くしているのは農民だ」
ある上海の友人は自分も中国農民のことを本にするのだと言ってきた。「農民たちは都会で泥棒をはたらいたり、人を騙したり、偽ブランドや粗悪品を製造したり悪いことばかりやっている。中国を悪くしているのは農民だ、みんなそう言っている。私はそれを本にするんだ!」と電話口で息巻いた。まるで中国人イコール犯罪者と思っている日本人みたいな発言だ。 そう、彼らの頭の中で農民は自分たちと同じ国民、あるいは人間ではないのだ。
中国との交流がほとんどなかった時代、日本では中国には泥棒がいないなどという幻想が伝えられたこともあったが、お国が人民をまるがかえて養う構想はすぐに破綻した。ソ連崩壊前夜、中国でも思想の開放、民主化の機運が高まり、新たな理想や構想を模索しはじめたそのとき、1989年、中国政府は考える人々を弾圧する暴挙に出た。その後当分の間左への揺れもどしの時期があり、��小平の強権発動によって強引な経済開発の大波が起こされた。そのときもう人生や世の中の理想など考えるひまもなく誰もかれもが金儲け主義に邁進し、「豊かになれる者から豊かになれ」「黒猫でも白猫でもネズミを捕るのがよい猫だ」のフレーズに乗せられて、経済至上主義の社会になってしまった。その結果がいまである。
地球規模で影響をおよぼす環境破壊は言うまでもなく、国内の経済格差は最悪で、07年10月の党大会でやっと「なんとかしなきゃ」と重い腰を上げている始末だ。それもこれもオリンピックを前にして国際的な世間体にかかわるからにすぎない。この20年のあいだに中国は人口が増え続け、80年代に10億といわれたものがいまは約13億(「約」と濁してあるぶんは数千万人)。そのうち約9億が農村人口で、1億が都会に流れ、農村にいるのは8億だと、ざっと言われている。
社会主義中国の実態は、国家の組織に組み入れられた人には教育費や医療保険などの福祉が与えられるが、そうではない人には与えられないというものだ。このとき地を耕す農民は入らない。生まれたそのとき農村であれば戸籍に「農民」と記載され、都市部への居住地の移動が制限され、あらゆる福祉が受けられない。より正確に言えば、社会福祉は地方自治に任せてあると言うべきであろう。しかし、貧しい地方では福祉などを行う予算ができないのである。農民には医療保険がないと知ったのは十数年前だった。 「えっ? じゃ癌とか腎臓病とかにかかったらどうなるの」と、教えてくれた先輩に聞いたところ、「死ぬのよ」という答え。
それだけではない、子どもたちへの義務教育まで自治任せでいいと言えるだろうか。実は北京などの都市部でも小学校は学費が必要だ。それでも現地の戸籍があれば一部負担ですむが、都市部へ出稼ぎに来ている農民家庭の子どもたちが学校に入るとき全額負担がしいられるのだ。出稼ぎ子弟が経済的理由で小学校にすら行かれないと知ったのは、10年近く前だった。 「えっ? それはひどいじゃないか!」と、教えてくれた北京の友人に言ったところ、その人は「税金を払っていないんだから当然だ」と平然と答えた。 農民は最初から公的福祉の対象外なのであり、はっきり言って国家建設当初から農民は国民として考えられていなかったのである。
▽売血でひろがるエイズ感染
一つの国の中で飽食している人と食うにも困っている人が同居しているのが現在の中国である。毎年、経済成長の目標値を定めている中国は、貧困地域を斬り捨てて数値達成をなしとげている。地方は人口抑制やら進学率やら環境保護やら、さまざまな上からの「お達し」を押しつけられ、結局、予算がないからでっち上げの数字でごまかしたり、農民から搾り取ったりしてしのぐ。 都市近郊の農村ならば農産物をすぐに都市へおろせるので、潤う地域もある。しかし交通上の条件が悪いところの農民は、地方政府に上納する作物をつくって、自分たちが年間に食べるぶんをつくるのがせいいっぱいだというのに、村落レベルの政府役人が恣意的に「緑化費」「計画出産調整費」「環境保護費」などなど適当な名称をつけて農民から巻き上げている。一部は公的な事業に使われるかもしれないが、実はそうした金のほとんどは役人が私腹をこやすのに使われる。
現在の中国では農業だけで生活はできない。一部地域を除きどこの地方も10代から40代までの人々はほぼ全員都市部に働き口を求めて郷里を離れている。一方、それもしなければ生き残るために腎臓の片方や角膜など体の一部を売ることだって十分にありえるのだ。 90年代初め、中国では医療用の血液が不足し中央政府のかけ声で「有償による採血」が始められたという。90年代初めというと急激な経済開放で中国では社会問題が噴出していた。拝金主義の空気で満ちていたそのころ、河南省政府は農民から文字通り血を搾りとって金を稼ぐことを思いついた。農村各地に血液収集センターをつくり、宣伝カーを走らせて貧しい農民たちに売血を促した。都市と農村との経済格差がひらく中で貧困層が売血に走るのは自然の流れだった。 河南省の省政府、およびその下のレベルの政府は「血が金になるなら採集すればいい」くらいの考えで、非常に不衛生な設備とずさんな採血方法で血を買い集めた。
農民たちは公の機関の宣伝を信じて売血した結果、次々とエイズに感染したのである。ついに輸血の結果エイズにかかる事態が発生し、94年、中央政府は「有償による採血」を禁止した。輸血の血がどこから来たものかわかっていたはずだ。だが、当時の河南省衛生庁長はエイズ蔓延の責任を問われることなく、その後中央に抜擢されて昇進したのだ。農民から血を搾り取って省の財政に寄与したことが高く評価されたのだろう。
▽高医師の戦いのはじまり
今年80歳の婦人科の女医、高耀潔医師が輸血によるエイズ感染者に気づいたのは1996年のことだった。高医師はすでにリタイアしていたが、現役の医師では診断できない女性患者が運ばれ、高医師が呼ばれたのだという。患者はカポシ肉腫を発症し、エイズかもしれないと思った彼女は血液検査を行った結果HIVポジティブであることがわかった。患者はそれから10日後に亡くなった。高医師はメディアのインタビューで「エイズ予防の活動を続けて10年ほどですね」などと聞かれると、「1996年4月7日からちょうど11年」と答える。その日は最初に診断した女性患者の亡くなった日だった。
当時もう70歳近い高齢、のんびり悠々自適の日々を送ってもよかったのだが、血液バンクの血液が汚染されている事実に直面し、高医師の戦いの日が始まった。
エイズ予防を呼びかけるパンフレットを自費でつくり、高医師の居住地である河南省の各地で配り始めた。エイズに対する偏見のために、こうした啓蒙活動はしばしば妨害され、売血感染した農民に薬を配ったりすることも地元政府の役人に妨害されたりした。しかし、彼女の活動に賛同する人も増えていき、マスコミからも注目されるようになり、北京などの大学生たちがボランティア活動を始めたりもするようになった(NHKクローズアップ現代、05年10月5日放送では河南省のいわゆるエイズ村を支援している清華大学生たちが紹介されている)。
高耀潔医師のインターネット・ブログから、農村の売血の実態を見てみると、07年7月の報告で、北京の大学に進んだ息子のために夫婦で4年にわたり売血によって得た6万3000元(100万円あまり)を送金したという。この不孝者の息子は、学費や生活費ばかりかパソコンや服などの金もせびっていた。売血の値段は1回400ccで150〜240元、血漿だけなら80元。1回240元として単純に計算するとほぼ6日に1回売血していた勘定になる。
同じく8月の報告では、青海省(チベット語でアムド地方)のある貧しい村(電気が通っている最後の村。電線がその村で終わり)の村長は1960年代から売血でしのいでいたという。「そりゃそうさ。小麦やジャガイモをつくっているが、たいした金にならない。月給もわずか、売血しなけりゃ生きていけなかったんだ」と村長は言った。
高医師が忘れられない二つの出来事の一つとしてあげているのは、2001年9月30日のこと、河南省内の調査を行っているとき郊外から鄭州へ帰る途中、エイズ感染者が多いという村のことを聞き、予定外だったが寄っていくことにした。村内のある家のそばを通りかかると、幼い声で「降りて、降りて」という呼ぶ声が聞こえる。門を開け庭を通って家に入ってみると、若い女が首をつって死んでいた。その足下には幼児が泣いている。さっきの声はこの子が叫んでいたものだった。首つり女性は死後3時間ほどたっているようだったとブログに記されている。 近所の人の話では、若い夫婦は貧しさゆえに売血をし、2人ともエイズにかかってしまった。夫が発症して亡くなったあと、まわりの人々に見放された妻は後追い自殺をしたのだ。2人とも16歳の人生だった。残された子どもを哀れに思うより、村の人は恐れのほうが大きかったのだろう。幼い子どもを世話する人はなく、1月後に死んだのだそうだ。
高医師はアメリカでのインタビューでこのことを話すとき、メガネをはずしてあふれる涙をぬぐっていた。
▽公表感染者数は100万人以上
高医師の活動が知られるにつれて新たな問題も発生した。高医師は農村の患者には直接医薬品を手渡している。ところが貴重な薬が他人に奪われてしまうことがある。河南省のある患者は高医師から薬をもらったあとすぐ、もっと薬がほしいと言ってきた。なんと従弟が来て薬を持っていって売ってしまったというのだ。 また高医師の名前を勝手に使って金を稼ごうとする偽薬販売の人間もいる。「高耀潔先生ご推奨」などというコピーを使い、なんの効き目もない薬、ひどいケースでは有害な偽薬をつくって病に苦しんでいる人から金を巻き上げるのだ。こうした偽薬は本物のエイズ薬にくらべて価格が格段に安い。中国でニセモノが横行している現状の根本的問題は、ちゃんとしたものが買えない人が多いということだ。経済格差の最下部にいる人々は、たとえば鉛筆が100円では買えない。10円か、あるいは1円でないと買えないのだ。
高医師のブログに出ている例では、慈善活動の名をかたって寄付金を集めるペテン師の話もあった。実際に高医師に連絡をしてきた女で、以前は衣料品店や喫茶店を営んでいたが、エイズ孤児(両親をエイズで亡くした子どもたち)のためにエイズ孤児救済協会を設立した、ついては資金を援助してくれと言う。怪しいと思った高医師は断ったが、その後ある組織が40万元をだまし取られたとのこと。慈善をかたるペテンを高医師は非常に憎み、ブログには大きな赤い字で警告が書かれている。 エイズを治せる「神医」なる偽医者の例も枚挙にいとまがない。
中国政府が公式に国内エイズ感染者の存在を認めたのは2000年のこと、当局のご都合で数字を調整している信憑性の薄い公式発表のデータでも100万人を超える感染者がいるというくらいだから、現実には150万人くらいにはなるだろう。
現政権は感染拡大を阻止せよという方針を打ち出している。とくに河南省農村の感染者救済のためにエイズ撲滅重点村を指定し、治療、薬、検査を無料にしたり、両親をエイズで亡くしたエイズ孤児には学費を免除するなどの方針を打ち出した。ところが、どの分野でも同じなのだが、中央政府が打ち出すのはこうしたかけ声だけで、実際に行うのは地方政府にまるごとお任せ、予算も具体的対策も出しはしない。地方政府は中央の方針に従わなければならないが、財政難という理由もあって、中央に指定された重点村だけは一応の救済措置を行うものの、それ以外の村に救済すべき患者がいても無視する。 地方政府が見ているのは中央政府の顔色であり、やっているように見せていればそれでいいのであり、問題はできるだけ隠そうとする。もしも重大な問題があることが中央にわかると、下の政府の役人は次々首を切られてしまうので、人道的救済活動を行う人は「自分たちの地位を危うくする悪い人間」だとして活動を妨害されるのが常なのだ。
▽腐敗役人たちの迫害工作
高医師はいまや中国のエイズ予防活動の第一人者として世界から注目をあびているが、そうした迫害を受けている一人である。 96年から始めたこの活動は世界に注目され、2001年にはWHOのジョナサン・マン健康人権賞(エイズ対策に貢献している人を対象とする)を受賞した。ところが中央の政府当局は高氏に出国許可を与えず、彼女はワシントンでの授賞式に出席できなかった。 そして今年1月、アメリカに拠点を置く女性人権団体で国際的NGO「生命の声」(Vital Voices Global Partnership)から、「世界リーダーシップ賞」が贈られることが決まり、3月の授賞式に出席するよう招待される。しかし出国手続きをするために自宅のある河南省鄭州市から北京へ行こうとしたとき、出国を阻止しようとする地方政府の圧力で軟禁状態に置かれた。報道によれば数十人の警官に取り囲まれ、電話線が切断されるなどの行為があったという。 しかし今回は「生命の声」の名誉会長である民主党のヒラリー・クリントン氏が胡錦涛氏に訴え、胡錦涛の指示によって2月末、無事渡米することができた。しかし渡航前、地方政府当局の圧力を受けた息子が床に手をついて渡米を思いとどまるように懇願したのだという。
高氏は昨年伴侶を亡くしたこともあり、アメリカの華人向けテレビ局の出演では、のっけに「海外へ出るのはこれが最初で最後です」などと言ったり、「私はこわい。ときどき死んでしまったほうがいいと思うことがある」と言ったりし、まわりの人から励ましのことばを受けていた。そんなことがあっても授賞式に行ったのは「少しでもエイズ蔓延の状況がよくなると思ったから」だと答えていた。香港の雑誌『亜州週刊』のインタビューには、「私が死ねばあの人たちはほっとする。これで何もかもかたがついたと。でもみんなはあの腐敗役人に殺されたと思うだろう」と言っている。あの人たちというのは腐敗役人のことである。
外見は親しみのあるおばあちゃんといった高医師は、心から腐敗役人を憎んでいる。アメリカの華人向け放送、多維TVのインタビューでも、「売血による感染は衛生問題ですね」とのことばに強く反発し、「もはや衛生問題でも医療問題でもない、社会問題だ」と言っていた。アメリカでは高医師の活動を支援したいと資金提供を申し出る人も多かった。だが彼女はそれを断った。 『亜州週刊』が伝えるところによれば、彼女は「三つの‘しない’」を決めているという。寄付金を受けない、組織をつくらない、役人と組まないというものだ。組織をつくって資金が集まれば、その金をねらう腐敗役人やら悪徳商人やらの餌食になるからだ。中国に吹き荒れる拝金主義の風は人を堕落させることを知ってこうした方針を決めたのだろう。
アメリカでの華人向けテレビ局でのインタビューで、高医師は目に涙をため「私には帰るところがないんだよ」と言っていたが、その後、シカゴから上海経由で河南の家に帰ったあと、固定電話も携帯電話もまったくつながらなくなったという。高医師のところへ電話をかけた人は呼び出し音を聞いていたが、高医師の電話は鳴らないのだ。河南にいるかぎりこの先も地方当局のいやがらせを受け続けることになるのだろうか。
中国当局は表向き売血を禁止しているが、実際には1990年以前から行われており、いまも広東省、貴州省などの地方で闇売血が行われている。血液ブローカー(中国語で「血頭」、密航ブローカーが「蛇頭」というのと同じようなことばの作り方)が暗躍している。お金に困って売血したい人は血頭にコンタクトをとるらしい。中国でそうした血液が輸血されているとしたら、エイズ感染はひろがる一方、もちろん肝炎などほかの病気もひろがることは火を見るよりも明らかである。
「エイズ感染予防の未来は非常に悲観的だ」と高医師は重々しく言った。高医師のところには全国から情報が寄せられている。それによれば北京や上海などの大都市以外、貧しい地域ほど状況は深刻で、ほぼ全土にわたって患者は増えているのだそうだ。インタビューの最後に高医師は言った。 「私は敗北者なんです。もう11年もやっているのにほとんど成果があがっていない」
■参考資料 『本当の中国を知っていますか?』山本秀也著(草思社) 『亜洲週刊』07年4月29日号 産経新聞07年3月16日国際面 You Tube多維TVhttp://video.1st-game.net/youtube/v_L5sukqBcCNU.html 高耀潔医師のブログhttp://blog.sina.com.cn/gaoyaojie
*本稿は『レヴェール』NO.123に掲載したものに一部加筆しました。
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