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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2010年11月25日00時59分掲載
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「パリ・ロンドン放浪記」(ジョージ・オーウェル)
「1984」や「動物農場」などの傑作を残した英国の作家・批評家・ジャーナリスト、ジョージ・オーウェル(1903-1950)のデビュー作はパリとロンドンでの貧乏生活を描いた「パリ・ロンドン放浪記」である。これは窮乏生活を描いた傑作である。25歳のオーウェルは貧乏生活を断ち切ろうと本気で思えば断ち切ることもできただろう。しかし、偶然、パリで陥った経済的な窮地をネタにルポを書いて一旗挙げてやろう、という自負もあったのではなかろうか。
オーウェルは名門のイートン校を卒業した後は進学せず、インド帝国警察の警察官になった。そうした経緯を見ても、他のエリート同級生たちと違った体験をして、それを書いてやろうという野心があったように思えてならない。そういう点で、デビュー作の本書は青春の書だと思う。
オーウェルはパリでどん底生活がいかに始まったかについてから書き起こしている。1928年、オーウェルは英語の講師をして日銭を稼いでいた。しかし、泥棒に貯金を持っていかれ、1日6フランの生活に切り詰めなくては暮らせなくなった。さらに生徒が辞めたため英語の授業が終わり、1日6フランのあてすらなくなってしまう。
こうしてオーウェルは無収入に落ちてしまう。一日中、外を歩くと食べ物がウィンドーから目に飛び込んできては苦しめる。当時のオーウェルは25歳だった。さらにこんなことも書いている。
「貧乏につきものの退屈もわかってくる。始終なにもすることがなくて、しかもろくに物を食べていないものだから、何にも興味がわかないのだ。半日ベッドでごろごろしていると、ボードレールの詩の「若い骸骨」のような気持ちになってしまう。食べ物がなくては、起きる気にもならない。1週間でもマーガリンつきのパンで暮らした人間は、もはや人間とは言えず、付属器官がいくつかついた腹にすぎないと、つくづく思う。」
オーウェルが暮らしていた木賃宿は「オテル・デ・トロワ・モワノー」(三雀荘)と呼ばれていた。場所は本書ではコックドール街と書かれているが、それはセーヌ川の南、パリ5区のムフタール通りあたりのようだ。
「暗い、ガタピシした五階建ての安普請で、木の板で仕切った40の部屋があった。」
壁の割れ目を隠すために貼った壁紙の隙間には無数の南京虫が住み着いていた、とある。客は浮浪者ばかりで、ほとんどは外国人だった。一週間もすればどんどん人が入れ替わる。しかし、長逗留している者もいた。
ロシアから亡命した男、ボリスもその1人である。ボリスは昔は金持ちで、白軍の兵士だった。革命で両親は殺されている。パリに来てからは、ブラシ工場の工員、中央市場の運搬人、皿洗い、ウェイターなどをしてきた。今は35歳ぐらいで、もとはハンサムだったのだろうが、病気をしてベッドに寝たきりだったため太ってしまっている。夢はウェイター生活でチップをため、高級レストランを開くことだという。
ボリスは昔なじみの愛人達に手紙を書いて金を無心するが、返事が来たのは1通だけだった。
「かわいい狼ちゃん あなたさまのすてきなお手紙、大よろこびで拝見しました。二人が心から愛しあっていたころのこと、あなたさまの唇から受けた尊いキスの数々のことを思い出さずにはいられませんでした。こういう思い出はいつまでも胸から消えません。枯れてしまった花の香りのように。二百フランが欲しいというお申し出ですが、ざんねんながら無理です。・・・・あなたさまの イヴォンヌ」
手紙に落胆してボリスはベッドから起き上がれない。
一方、オーウェルは釣竿を借り、蝿を餌にセーヌ川で釣りをするが、収穫もなし。絶食の数日の後、オーウェルを救ったのは路上に落ちていた硬貨だった。
「宿に帰ろうとブロカ街を歩いていたわたしは、とつぜん、敷石の上に光っている5スウ硬貨を見つけたのである。わたしはそれにとびつくと、いそいで宿へ帰り、もう1つある5スウを出して、じゃがいもを1ポンド買った。ストーブにはそれをやっと半茹でにする程度のアルコールしか残っていなかったし、塩もなかったのに、われわれは皮から何から貪り食った。」
こうした日々を経てオーウェルはホテルの皿洗いの仕事にありついた。しかし、この仕事を憎み、皿洗いは奴隷だとすら言っている。
「いま、このときにもパリには、大学を出ながら、1日10時間から15時間皿洗いをしている人間がいるのだ。それは彼らが怠け者だからだ、とは言えない。怠け者では、皿洗いは務まらないのだ。彼らは単に、思考を不可能にしてしまう単純な繰り返しの生活に捕まっただけなのである。」
その後、英国に帰国し、ロンドンの浮浪者と行動をともにしながら、どん底生活の真実をさらに深めていくことになる。
■参照 岩波文庫「パリ・ロンドン放浪記」(小野寺健訳)
村上良太
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パリの石畳
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