【12月プーチン大統領来日も成果なし。シベリア抑留問題、政府レベルで進展の可能性見えず・・・せめて実態解明・遺骨収集は日ロ共同で真剣に取り組むべきではないでしょうか―今後200年以上かけても終わらない遺骨収集事業は抜本的・戦略的転換を―】
■プーチン大統領来日に失望広がる 昨年12月15・16日のプーチン・ロシア大統領の来日は大いに注目されましたが、シベリア抑留問題では何の進展もありませんでした。そもそも首脳会談に抑留問題を出すつもりも、日本側にはまったくなかったようです。領土を意識した経済協力の話のみに終始し、ロシア側にすり寄る形での「協力」関係がアピールされました。 1日目の会談場所は山口県長門市で、ここには著名な抑留画家の「香月泰男美術館」があり、シベリアとも因縁のある地でした。散歩を兼ねて同美術館を訪れ、しばし静かに抑留体験を描いた作品と対面するだけでも、日ロの未来に向けて、ポジティブなアピールができたのではないでしょうか。 2日目の東京では、首脳会談の後、永田町から経団連や講道館に移動する途中、シベリア・モンゴルからの遺骨1万4千柱が眠る千鳥ヶ淵戦没者墓苑に短時間寄って、献花・黙祷する時間も、配慮もなかったのでしょうか? ゴルバチョフ、エリツィン大統領との違いは、あまりに顕著で、失望を禁じえませんでした。「日ソ共同宣言」が調印された60年前、日ソ間の最大の懸案は、抑留問題でしたが、60年たって、はたして日ロ間の“最大の棘”は取り除かれたのでしょうか?
■12/26「引揚終了60年」式典なく、首相は真珠湾へ 12月26日は、1956年にソ連からの最後の引揚船が長期抑留者1025人を乗せて興安丸が舞鶴港に入港してから60年でした。シベリア抑留が終わった記念すべき日でしたが、政府、自治体レベルでは何の記念式典も行われませんでした。 この日、安部首相はハワイの真珠湾でオバマ大統領とともに、アリゾナ記念館で献花・黙祷しましたが、日本人捕虜・抑留者問題への配慮より、日米の和解と同盟強化を優先させた印象でした。
■現場の問題ではなく、政府全体の気概と戦略の欠如 昨年10月に厚生労働省の遺骨収集班が、シベリアのコムソモリスクで、収集した遺骨のDNA鑑定用検体61人分を誤って焚火に入れて焼失するという、前代未聞の不祥事が起きました。詳細な事件の報告書も発表されましたが、問題は現場レベルの緊張感が足らなかったというような話ではなく、そもそも政府全体に、真剣にシベリア抑留問題の解決、実態解明、遺骨収集に取り組もうとする気概がないのではないか、その点にこそ大きな問題があるのではないかという気がします。もし、やる気があるのであれば、あと200年かけても終わらない遺骨収集事業をどうするのか?もっと真剣に戦略的な議論が活発に交わされるはずです。 最近は、体験者だけでなく、遺族もどんどん亡くなっています。遺族の気持ちに応えようするのであれば、もっと効率的で実践的な遺骨収集の方法論が検討されるべきではないでしょうか。敗戦で軍隊が消滅し、旧陸・海軍から名簿を引き継ぎ、やむなく後始末を担わされているという残務処理的な発想では、遺骨も遺族も浮かばれません。
■日ロ共同で実態解明・遺骨収集・追悼事業を そもそも、シベリアに拉致し、過酷な条件で奴隷労働を強いたのはソ連・ロシアです。日本側がシベリアに送り込んだものでも、攻め込んだものでもありません。シベリア抑留に限っていえば、加害国はソ連です。日本側が、頭を下げて、お金を払って遺骨を調査・収集させていただくという筋の話ではないはずです。不当に連行・使役したソ連・ロシアが金も人も出して、遺骨を調査し、収集して丁重に返還すべき話ではないのでしょうか? ロシア側も責任を痛感し、主体的に調査や遺骨収集事業に参加し、場合によっては、現地に詳しいロシア軍を投入するくらいの積極的な姿勢へのチェンジが望まれます。 実態解明も遺骨収集も追悼事業も、日ロの共同事業として実施されるべきです。1991年の日ソ協定の改定も不可避です。双方に司令塔も必要です。2017年、やるべきことは多々あります。
【11月・12月のスケッチ展に800人来場。貴重な絵巻物などを鑑賞―12/26抑留者帰還終了60年、スケッチと資料、音楽で当時の歴史をたどる―】
11月1〜6日、12月23〜28日、東京・九段の九段生涯学習館で抑留体験者が描いたスケッチ・絵巻物の展示を行いました。11月は、BC級戦犯・巣鴨プリズン関係の展示も併せて行いました。 今回展示したのは、山形の澤田精之助さん(村山市、1921−85)、渡邊昭平さん(西村山郡、1927−83)、岐阜の井上馨さん(瑞穂市、1912−96)、兵庫の山下静夫さん(明石市、1918−2012)の作品56点(いずれも故人)。澤田さん、渡邊さんの作品は初公開で、逝去後、ご遺族の元で長く眠っていたものでした。とりわけ今回注目されたのは、澤田さんの32メートルの絵巻物で、絵と文章で綴られた他に類を見ない抑留体験記録でした。 新聞やTVでも紹介され、2週間に合計約800人が来場して、作品を鑑賞。会場では、連日関係者によるトークも行われ、深く理解しようとする方々が熱心に耳を傾けました。最年長102歳の相川知太郎さん(江東区)をはじめ、抑留体験者の方々も毎日のように見えて、来場者に体験を語ってくださいました。渡邊昭平さんと満州の陸軍軍官学校同期で、収容所(ブカチャーチャ)でも一緒だったという名川勝之助さん(92歳、さいたま市)は息子や大学生の孫とともに来場、渡邊さんと収容所の思い出を話してくださいました。 60年前に舞鶴港に最後のソ連からの引揚船「興安丸」が入港した12月26日には、新関省二さんが密かにアコーデオンの中に隠して持ち帰った「ソヴエート歌曲集」収録の曲を、バリトン歌手の古川精一さん(遺族)が新関さんとともに歌う貴重な催しも行われました。 ビデオ・コーナーも設けられ、1952年制作の映画『私はシベリヤの捕虜だった』やドキュメンタリーが連続上映されました。 同会場での展示は、2010年以来6年ぶりでしたが、来場された抑留体験者の数は減少し、遺家族が多くなり、祖父や父・兄・叔父の消息を求める相談も次々受けました。 作品提供・広報・設営・運営などにご協力をいただいた多くの皆様のご協力に感謝します。こうした機会をもっと設けてほしいという要望も多く、さらに展示の機会を増やせないか、検討しているところです。 3月18〜20日には絵巻物の作者・澤田精之助さんの故郷の山形県村山市民会館でスケッチ・絵巻物が展示され、その後も山形県各地での展示が検討されています。また、今年10月には東京の世田谷平和資料館(池尻)で、四國五郎さん(広島)の作品展が計画されています。各地・各家庭に多くの貴重な体験者の記録や作品が眠っていると思われます。それらの適切な保存と活用を呼びかけます。
◆澤田精之助さんの絵巻物が冊子になりました 昨年初公開されて話題になった澤田精之助さんの32メートルの絵巻物が冊子の特製画文集として発行されました。A4版116頁、700円+送料100円。事務局で取り扱い中。
【<悼む>シベリア・ブラーツクのラーゲル時代の加藤九祚先生の思い出〜知久三郎(元抑留者・川崎市在住・92歳)】
私は昭和20年8月満州の牡丹江省石頭にあった甲種幹部候補生の教育隊におりました。 8月11日、ソ連軍は大挙して侵入し、その桟甲軍団に対し銃剣と手りゅう弾、そして手造りの急造爆弾を抱えて敵戦車に体当たりを挑み、軍人、軍属、開拓団、居留民の南下するまでの防波堤になりました。 大半が戦死し、生き残った者はボロボロの夏衣のままソ連に抑留され、私はバイカル湖の北西ブラーツクという寒村に入りました。 翌年(1946)3月、加藤中尉が一装の軍服に新品の外套、長靴で当番兵付きで兵200名を連れて着任、ハンサムな凛とした青年将校は、私達のあこがれの的でした。直ちに隊長になり、私は馬屋の班長を命ぜられました。馬部隊でもなく、本当に困りました。 私の任務は下士官、兵を連れて製材所、水汲み、糧秣庫等の作業地に作業を割り当て、一刻も早く作業現 場に行かせることでした。 言葉も判らず、もどかしさを感じながらの毎日でした。作業兵が出た後は、ソ連人の係と一緒に馬屋の掃除、寝わらを乾して馬糞を捨てることでした。終わると休憩になり、私は紙も鉛筆も無いので、消炭をポケットに入れて、地面に絵を画いて、ロシア語を教わりました。 耳学問で、書くことも読むこともできない、単語を綴り合わせてソ連人の話すことをよく聞いて覚えました。 加藤隊長は、毎日各作業場を巡視して、私のところで一休みしていました。 毎朝、作業出発時にあの天性の明るい性格で部下を愛する一途な思いをこめて、「軽挙妄動」をつつしみ、体に気をつけて、やがて故郷に帰る日を待とうと訓示しました。 兎に角、猛勉強する方でした。夜おそくまで、缶詰の空き缶で作ったランプで、外套をかぶって勉強していました。 翌年(1947)4月野口少佐を長として、チチハル航空隊が来所して、加藤隊長は未開の28ラーゲルに転出し、私は303ラーゲルに行かされました。 或る日、私のラーゲルのソ連の下士官が、私に「日本人は人間の肉を食うのか」と質問があり、私は即座に否定しました。ところが、隣の28ラーゲルでの伐採作業で昼食後、歩哨が人員点呼したら、3名が足らなかった。牢獄への逃亡であったと言われたが、私は信じなかった。加藤隊長の部下3名であったとすぐに伝わってきた。隊長は司令部で取り調べを受けたと聞いた。明くる日、死骸が運ばれて来て、収容所の松の木の根元に並べられた。 隊長は、「私は暗い記憶から逃れることはできない。人間であることをやめてしまいたい」と言っていた。 やがて、次の移動で、ブラーツクから巣立った3ラーゲルが48ラーゲルに集められて、隊長と顔を合わせ、何か不当な命令を出されると、厳然とした態度と流暢なロシア語で、私達をかばってくれました。 この頃、「友の会」という民主運動が始まり、将校と兵、下士官は分離され、将校は19ラーゲルに集められた。 私は昭和24年8月に舞鶴に着き、復員しました。 先生が平凡社に居られる頃に伺いました。大学教授から大阪の国立民族博物館に栄転された。 退官記念の出版会が新大阪のステーションビルで行われるご案内をいただき、ブラーツクにいた同期生を誘って出席しました。井上靖先生や司馬遼太郎先生など日本文壇の方々と日頃お会い出来ない大先生のお姿を拝見し、加藤先生をたたえるご挨拶を聞き、感動いたしました。シベリアでの旧友も九州、関西から来られて、先生と歓談し、奥様にもお会いしました。『北東アジア民族学史の研究』という名著を求めました。 東京にお帰りになられた時、在京の同期生と先生の旧部下を集めて歓迎会を催しました。 ウズベキスタンの発掘の現場からお帰りになると、私に会いたいと電話があり、何度かお会いしました。仏教遺跡カラテバの発掘と言うので、私も協賛させていただきました。 私が生あるのは、先生にあの時、馬屋の長を命ぜられたご縁で、在ソ中4年間ほとんど内勤で過ごすことが出来た命の恩人であると思っています。 お会いしてから70年、私の胸に先生のお姿が焼き付いております。 どうぞ安らかにお眠りください。 (*2016年11月3日、市ヶ谷・JICA地球ひろばで開かれた「加藤九祚先生を偲ぶ会」でのスピーチより)
【<報告&提起> 「シベリアへ送られた少年たち」の公的調査を〜山岸重治】
我が家は1941(昭和16)年に満州(中国東北地区・以下満州と記す)へ移住し、各地を転々として、小学校6年を修了した1944(昭和19)年、満12歳の私は四平市の関東軍陸軍燃料廠技能者養成所に軍属生徒として入隊しました。 燃料廠は、当時逼迫していた航空機燃料の研究製造のため技術者と徴用工を含む約2000人の隊員を擁する大コンビナートでした。私たち同期生は朝鮮族を含む60名で将来日本に留学して技術者になるため理工系の学科と厳しい軍事教練の毎日で、翌1945(昭和20)年には学徒動員の中学生も加わり大きな寮も雑魚寝の有様でした。8月9日ソ連軍の満州侵攻により燃料廠の軍属は軍人に任じられ防衛体制に就いたのですが、戦乱に遭遇することなく敗戦を迎えました。 進駐したソ連軍により武装解除され、将校は戦車隊跡に一般隊員は平東(四平市東部)のソ連軍収容所へ送られました。親元に帰れなかった私たちと徴用工の年少者は残務整理、学徒たちは市内の留守家族家庭に分宿させられました。
■1945年秋、脱走日本兵の身代わりに 9月中旬、軍医に変装して収容所を抜け出した燃料廠の総務課長で養成所長の飯田大尉が姿を現し、「収容所から家族持ちの隊員が脱走し、ソ連軍から追求されている。代わりに収容所へ行け」と命令し、日本に帰る近道だと私たちを説得しました。こうして、命令に逆らう術のない私たちは平東の関東軍糧秣廠跡の収容所へ送られたのです。 ソ連軍は、私たちを脱走者が戻ったと見て、銃殺すると地下の重営倉に入れました。悲嘆の日を過ごしていた時に、巡視に来たソ連軍将校が少年ばかりなのを不審に思い、日本側を追及して事実が判明して、命拾いしました。翌日からソ連軍の戦利品とされた糧秣廠の物資を貨車に積み込む重労働に従事させられました。年齢に関係なく割り当てられる労働は、地獄の苦しみでした。 作業の進捗に従い、シベリア送りが始まり、私たちは最後のシベリア行きの貨車に乗せられました。ところが、私は出発間際に顔見知りのソ連兵に貨車から蹴り落されました。シベリア経由で日本に帰るつもりだった私にとっては不本意でしたが、これが運命の分かれ道となったのです。解放後は中国内戦に遭遇し、国共両軍に使役された後に帰国することができました。 しかし、あの時シベリアへ行ってしまった少年たち(後に一人の生還者と再会)の消息は不明です。 その後、私は違った形で動員学徒他が脱走者の身代わりにシベリアへ送られたことを資料により知るのです。
■司馬遼太郎氏に返信もらい、記録執筆を決意 私は司馬遼太郎作品の愛読者で、氏が燃料廠近くの四平陸軍戦車学校に所属されたことを知り、手紙を書きました。思いもかけず頂いた返信で氏は「満13歳未満の子供に訓練を施すというのは生体実験と同様の非人間的なことです(ママ)」と憤っておられました。この手紙により私は記録文を書く決意をしました。軍隊の最末端にいた私には裏付となる証拠類は皆無でしたが、関係者より、「陸軍燃料廠史」と手記「無蓋貨車」(三輪武雄著)を提供され、概要が判明しました。 「陸軍燃料史」によると平東の収容所に送られた隊員は約800名。このうち家族を残してきた約240名が脱走したとあり、この穴埋めに私たち年少者と動員学徒他を当てたことになります。「無蓋貨車」には学徒を説得して収容所から外部作業に来た隊員20名を巧みに交代させたとあり、予定は66名だったが、さすがにそれはできなかったとも記されています。その他、四平市に住んだ知人の話では「日本へ早く帰る」希望を市内で募集したとのことですが、詳細は判明しません。 これらの資料を含めて私は1997年に『13歳の関東軍兵士』初版を出版しました。その中で看過できないこととして年少者と動員学徒がシベリアへ送られたことを記しておきました。出版後まもなく、ある読者から「私は貴著にある動員学徒でした」との連絡があり、当人の住居地がある岡山駅で互いに著書をかざして対面しました。
■調査協力の呼びかけに多かった拒絶反応 山田というその人は「私は奉天工業から動員された学徒で、シベリア送りの途中で体を壊し朝鮮国境近くで貨車から降ろされた。苦労して帰国したがあの時の同級生の消息は不明だ」と語り、協力して学徒の消息を調査しようと約束したのですが、残念ながら間もなく病死されました。道は閉ざされたと思ったところ、奉天工業の生徒だった小学校同級生の配慮で入手した同窓会名簿により、機械科4期生40 名中半数の消息不明者が存在し、生存者の中に前記の山田氏の名があることから正確に記されていることが確認できました。 私は奉天工業機械科生存者全員に消息不明者の情報を求める手紙を書きましたが、返信の多くは今更過去のことやプライバシーには触れたくないと拒否されました。その中の二人は燃料廠への動員を認め、一人は「シベリアから生還した仲間を知っており、身体障害になった人もいるが、昔のことは忘れて生きて行く約束なので、余計なことをしないで欲しい」と言われ、それ以上の追究は不可能と思われました。ところが、奉天工業から動員学徒のシベリア行きの事実が判明しました。 私の記憶では、その他数校からも動員されていたのを覚えています。錦州中学・旅順中学・間島中学等から数十人ずつ来ていましたが、途中で交代などあったらしく全体の把握は困難です。
■手記から垣間見た事実の断片と辛い記憶 2007年3月「貴殿の著書と関係があると思われる」という手紙と公主嶺在満国民学校史(満州中部の小都市)に記載された手記が送られてきました。手記には「昭和19年に小学校6年を卒えた私は四平市の陸軍燃料廠付属学校にいた時に敗戦になった。武装解除されてソ連軍収容所からシベリアへ送られ、大人と同様に働かせられて16歳の時に帰国した(要旨)」筆者は安部卓二とあり、私は安部氏とは親しくなかったがよく覚えていました。 同窓会の配慮で彼と連絡がつき、対面の希望を伝えましたが。彼は「私を知らない」と最初拒否しました。電話で燃料廠時代の共通の思い出を話して、ようやく私を認めましたが「シベリアへ行った仲間は皆死んだ。残った者も死んだと思っていた」と答えました。その後も根気よく説得して彼の住居地の仙台で対面しました。双方とも齢は取っていたが面影は残っており、彼の家へ行き、シベリアの状況を尋ねましたが、過酷な作業の一端には触れたものの「仲間は皆死んだ」というのみで、「他は忘れた、言えない」の一点張りで物別れとなりました。年少の彼が生還できたのには人には言えない事情があったのだろうと推測する他はありませんでした。
■2010年NHKがドキュメンタリーを放送 2006年に最後の陸燃会で燃料廠の元幹部某氏と話す機会がありました。敗戦後の話の中で氏は、燃料廠の最高技師M氏の依頼で間島中学生を収容所へ送るのに関与したことを漏らし、M氏の裏書がある名刺を見せてくれました。文字はかすれていましたが、事実は確認できました。その後私は某氏に手紙で事実関係を尋ねる手紙を出しました。氏は返信で燃料廠の家族の困難な立場と残留した幹部の苦悩に触れ、「指導教師の付き添いもなく官舎に残った学徒の取り扱いに悩み、収容所へ行くことで内地に帰れるならばと、20数名の間島中学生に餞別を贈って送り出した」とのことでした。 2010年9月7日にNHK神戸放送局に市民某氏から「ダモイの歌」と題する間島中学動員学徒のシベリア抑留の手記が持ち込まれ、同局の担当ディレクターが拙宅に裏付け調査に訪れて、私の著書など記述を補足する資料などを持ち帰りました。問題点や矛盾部分等を整理して同年10月2日『目撃日本列島・16歳のシベリア抑留』と題するドキュメント番組が全国放映されました。番組が放映されたので氏名を明かすと、燃料廠元幹部は陸軍大尉佐野裕、手記「ダモイの歌」の著者は元学徒の阿部順三です。 ドキュメントによると、1945(昭和20)年10月のある夜、佐野大尉とソ連軍兵士が官舎に出向き、背の高い順に26名を選抜して、「年齢は18歳(実年齢は16歳、兵役年齢を偽る)と言え」と指示し、平東の収容所を経由してシベリアへ送られたことになっています。彼らは日本に帰るために選ばれたと思ったが、他の燃料廠出身者から脱走者の身代わりだと聞かされたとのことです。幸い、関東中学生は一緒に行動したためか、死亡者は一人だったとのことでした。私は安部氏に動員学徒に関する検証の協議を依頼しましたが、なぜか拒否されました。
■公的調査で名簿整備し、少年らの犠牲認知すべき 2007年に長野市で平和祈念事業特別基金による「平和祈念展」が開催され、厚労省が展示したソ連側発表による軍人の「ソ連邦抑留死亡者」名簿がありました。全9冊分の名簿には6万名にも及ぶ死亡者の氏名・生年・階級等が記載されていました。私は会期中3日通って、敗戦時に17歳以下(昭和3年以降生まれ)の兵役年齢に達せず死亡した年少者を拾い上げました。ソ連側訳の文書は難解で5冊分に目を通すのが限界でしたが、昭和3年生まれ13名、同4年生まれ44名、同5・6年生まれが各1名の計59名でした。階級別では曹長・伍長の他は兵と記されています。この年齢で下士官は存在しないが資料ではこうなっており、階級欄が空白なのは民間人だろうか、などと疑問を持ちました。全体の死亡者からすると必ずしも多くはなく、この年齢範囲で軍人と称される少年は少数だったことを物語っています。 では、名簿上で少年軍属や民間人の動員学徒・徴用工・義勇隊員など軍籍になかった少年はどう処理されたのか疑問が残ります。義勇隊員の場合、「長野県満州開拓史名簿編」によると、昭和3年以降生まれの隊員でシベリアへ送られた49名中、死亡者は12人であると記されていますが、全国的には相当の数になるはずです。他にも軍隊の現業機関や特務機関にも少年が存在したのは事実ですが、シベリアへ送られたことの具体的な証明は不可能です。 私の能力では以上の範囲を記す能力しかありません。当時、徴兵年齢にも達せず、幼年でもなく成人にも達しない少年の能力では流れに従う他なく、想像を絶する苦難に晒されたはずですが、日本では彼らの存在すら知られず、歴史の陰に葬られていることに、悲哀と怒りを禁じえません。まして、彼ら少年の犠牲により家族とともに帰国した人たちは、この事実を夢想だにせず、幸せに生活していることでしょう。公的な調査と対応を切に願っています。 〔*山岸重治さん連絡先⇒ yama3571@ybb.ne.jp 〒389−1106長野市豊野町石2455 (Tel)026−257−4042〕
【<読む>】
●富田武著『シベリア抑留―スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』(中央公論新社、2016)(860円+税)
「囚人労働の国での戦争捕虜の実態明らかに」下田喜美子(会員) 著者によれば、本書は「『シベリア抑留』をより大きな地理的広がりと歴史的文脈に位置づけ直し、多面的に議論して内容を豊かにする」ために執筆された。 具体的には、�(疥瑳�容所はソ連国内の政治犯・刑事犯を対象とした矯正収容所と同じ内務人民委員部の管理下にあり、同様の体制の一部であったこと、��同じく収容されていたドイツ人及び同盟国の戦争捕虜の存在、�C楼菫澗里�「ソ連管理地域」とされ民間人が事実上、大規模に抑留された状態であった南樺太・北朝鮮、�ぜ�容の実施体としての共和国・地方・州、それぞれの収容所の捕虜に対する管理・運営、といった以前の研究では欠けがちであった諸点に注意を向けている。 本書の構成は次の通りである。 序章 矯正労働収容所という起源 第1章 200余万のドイツ人捕虜―侵略の「人的賠償」 第2章 満州から移送された日本軍捕虜―ソ連・モンゴル抑留 第3章 「現地抑留」された日本人―忘却の南樺太・北朝鮮 終章 歴史としての「シベリア抑留」の全体像へ
序章で明らかにされるのは、ソビエト政権が自らの政権に反対する「反革命分子」や刑事犯を囚人として矯正収容所に送り込み、その囚人労働力を社会主義建設のインフラ整備などに使用したことである。その待遇の苛酷さは銃殺か、収容所かの振り分けの苛酷さであろう。捕虜収容所に最初に収容されたのは1939年のソ連のポーランド侵攻によって捕虜とされたポーランド人捕虜である。しかし、その処遇は矯正収容所に準じた囚人労働力としての処遇である。 第2章では独ソ戦争の結果、捕虜となったドイツ人捕虜は同戦争で2000万を超えた死亡ソ連兵士の労働力の代替として使役されることとなった。ドイツ人捕虜も第2章の日本軍捕虜も、囚人労働者の基準でソ連経済の建設・復興のために苛酷な収容所生活を送ることを余儀なくされた。両者の処遇もその結果としての人間性の破壊も同様であり、従来の毅然としたドイツ捕虜像は虚像にすぎない。 第3章の「現地抑留」も別の形でのソ連体制への強制協力ともいえる。スターリン体制下でのソ連では、ソ連の人々の人権も認められていなかった。囚人労働による社会主義建設が常態化していた国に送り込まれた戦争捕虜がどのような扱いを受けたかの観点からシベリア抑留をとらえなおした好著と言えよう。
●栗原俊雄著『戦後補償裁判―民間人たちの終わらない「戦争」』(NHK出版新書、2016)(820円+税)
「戦後補償の不条理・不平等を解明、批判」池田幸一(世話人) 戦争に関わった国々が勝者敗者を問わず、どのような形で戦後補償を行ってきたか?その姿こそがそれぞれの国家の品格であり、資質の評価であることを本書は教えてくれました。つまり戦後補償は各国の考課表であり、国民に知らせる通信簿でもあるのです。 「シベリア抑留」の老兵はその立場から、書評ではなくて読後の感想を述べたいのですが、他国に比べて、我が国は大変愚かで恥ずべき処理を行い続けてきました。戦争責任の重い者ほど、戦後多額の補償や援護をむさぼり、民間被害者の殆どを見捨てた冷酷な不平等。財源がなかったのではありません。60数兆円もの大金を元軍人軍属たちが独り占めをした実態を、本書は怒りを込めて摘発しています。 なぜこのような恥ずべきことになったのか? 私は厚生省や総務省(以前は総務庁)の官の論理と主張が他を圧したのではなかったかと思うのです。敗戦によって解体した陸軍省、海軍省の残務が厚生省に吸収され、引揚・援護事業を主に担当したように聞いておりますが、それらの言い分が他を圧倒し、誰の目にも明らかな差別や不平等・不作為を放置して恥じない、巨大な手前味噌を生んだのではなかったか。 戦後補償に対する歴代政府の態度は、“同情はしても謝罪はしない、慰藉はすれども個人補償は一切しない”、これが一貫した流れでした。この分厚い壁に初めて風穴を開けたのが2010年に成立を見た「シベリア特措法」で、これにより特別給付金という名の個人補償約200億円の支給が初めて認められました。しかし、この法律も対象は日本国籍を有する生存者7万人弱に限り、一人当たり平均支給額は僅か28万円でした。 他国のようにもっと早い時期にすべき補償を、政府が一部の団体とだけ協調して、ぬらりくらりと時間をぬらりくらりと時間稼いだ結果がこれで、国は推定4千億円を稼いだことになります。本来働かされた我々が手にすべき未払い賃金を、国が横領着服してきたとも言えるでしょう。 一億総懺悔による「戦争被害受忍論」は著者が指摘する通り“出来の悪い冗談のような法理”ですが、もう一つの法理「国家無答責」にも苦しめられました。<国家なり官公吏の違法な行為によって損害が生じても、国家が賠償責任を負わない>という法理です。 まさに“そこのけそこのけお馬が通る”の超法規で、1942年10月に公布された憲法17条の実施法律として制定された「国家賠償法」以前は、お上のなさることには一切逆らえない仕組みになっていました。スターリンの強制連行も敗戦直後だったとして国側の「国家無答責」の有力な根拠となり、それがため私が原告になった国家賠償請求訴訟「カマキリ裁判」も最高裁で棄却されてしまいました。 私がつくづく感心するのは、この著者の作品群の事さです。戦争とそれに伴う問題点の急所をえぐり、忘れられようとする戦後に対してこだわり続ける姿勢、“一年中「八月ジャーナリズム」をやっている”と言われるほど戦後の死角を論じ続ける執念。報じるとともに論じる記者として、著者は水を得た魚のように要所を取材し、達意の文を駆使して警鐘を打ち鳴らす。ジャーナリストとしてのその姿勢に、心からなる敬意を表する次第です。
●坂間文子『雪原にひとり囚われて』(復刊ドットコム、2016)(3,200円+税)
「貴重な女性抑留者・流刑者の体験記の復刊」安部農(一橋大学大学院社会学研究科修士一年) 坂間(旧姓「赤羽」)文子は、本書に書かれているように、ソ連で5年のラーゲリ体験と5年の流刑体験をした女性である。つまり、シベリア抑留を体験した女性だ。 女性の抑留者については、その存在がこれまでも指摘されてきた。体験記では「女性抑留者」、もしくは「女囚」という呼び方で、男性抑留者との接点が少ないながらも描かれている。同じ収容所で女性抑留者の姿を見かけたり、女囚の集団とすれ違ったりという具合だ。しかし、彼女たちがどのような理由で捕らえられ、どのようにしてすごしたのかという具体像は、体験記には決して描かれてこなかった。 本書は、そうした女性抑留者の体験を綴った貴重な体験記である。彼女は満州で旧ソ連領事館の日本語教師をしていた経歴からスパイの嫌疑をかけられ、5年間の刑期を言い渡される。その後刑期を終えても自由の身にはならず、流刑者として結局さらに5年間をソ連で過ごすことになった。 本書の重要性は、上述のように女性抑留者の体験をとても詳細に書いたということにあるだろう。これまでの研究でも、女性抑留者の実態は、総数や経緯、それぞれの具体的な体験など、あきらかになっていないことが多い。1975年の発刊から42年を経て復刊された本書は、その究明のきっかけになることだろう。 また、研究者を目指す身として、本書の細部の描写は、女性抑留者という観点にとどまらず、とても興味深かった。たとえば移送列車や監獄での排泄をめぐる逡巡は、これまで読んできた男性抑留者の体験と一致している部分でもあったし、その反面で多人種多国籍な収容所内の様子や男女間の交友の描写は、スパイ嫌疑をかけられた長期抑留者としての性質、そして女性抑留者の視線から男性抑留者を相対化する視点でもあった。そしてそれぞれの場面について加えられる筆者の分析は、高杉一郎『極光のかげに』や石原吉郎の一連のエッセイを思い起こさせるものでもある。 本書の記述は実に詳細にわたっている。そしていずれの点から読むにしても、政治・歴史研究から文学研究まで、これまでのシベリア抑留研究を多角化する視座を提供してくれるはずである。復刊の意義はとても重い。
【<聴く・学ぶ>大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター主催・公開講座「市民アカデミア2017」〜「日ソ共同宣言・シベリア抑留帰還60年―日ソ/日ロ関係と帰還者たちの歩み」】
2014年「シベリア抑留は今どう記憶されているのか」、2015年「シベリア抑留70年―帰還者と記録が伝えるもの」に続く3回目の連続公開講座を大阪経済法科大学・麻布台セミナーハウスで開催しました。 12月のプーチン大統領の来日に向けて日ロの外交交渉が頻繁に行われる中で、�‘�ソ共同宣言以降の歩みを振り返りつつ、シベリア抑留問題を外交課題にどう押し上げるのか、�∧振冉�齢93 歳になる抑留体験者が戦後をどう歩んだのか、を講師とともに考えることがテーマでした。(協力・後援=シベリア抑留研究会、シベリア抑留者・支援記録センター) 第1回(10月8日)は、「『日ソ共同宣言』60年目の課題―領土・平和条約・抑留解明―」と題して下斗米伸夫法政大学教授が、直近の日ロ交渉の流れを解説し、経済関係の進展はありそうだが、領土問題での前進があるかどうかは、両首脳次第と分析されました。 第2回(11月5日)は、抑留体験者の加藤九祚先生をお招きして、「私のシベリア体験―考古学者・加藤九祚さんに聞く」と題して話していただく予定だったのですが、加藤先生が9月11 日に旅行先のウズベキスタンで急逝されたため、追悼講座に変更して開催しました。 2005年にNHKが放送した加藤先生の特集番組『こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 私の戦後70 年』を観た後、富田武成蹊大学名誉教授、藤本和貴夫大阪経済法科大学学長が加藤先生の人となりや思い出を次々紹介。 加藤先生の調査や旅行の手配を担当し、同行することも多かった旅行代理店の本多一重さん、元抑留者の呉正男、松本茂雄さん、取材でお世話になった関係者らがそれぞれの思い出やシベリアの記憶をお話しくださり、最後に夫人の定子さんも最後の様子などを語ってくださいました。加藤先生の歩みを振り返りながら、幅広い業績と温かい人柄をしのぶ貴重な時間となりました。 第3回(12月10日)は、「抑留体験の伝承と表現―体験はどこまで伝えられるか?―」と題して、講師におざわ・ゆきさん(漫画家)と山崎まゆみさん(フリーライター)を招いて、対談形式で行ないました。最初に山崎さんの著書『白菊―伝説の花火師・嘉瀬誠次が捧げた鎮魂の花』(小学館、2014年)の取材と併行して制作された『長岡花火のキセキ〜白菊とフェニックス〜』(2015、新潟放送)を鑑賞し、おざわさんが山崎さんの仕事に質問する形でやりとりが始まりました。 ラバウル海軍基地の元兵士らと温泉のエピソードをまとめ、『ラバウル温泉遊撃隊』(新潮社、2009年)を著した後、地元の花火師で元抑留者だった嘉瀬誠次さん(第50回吉川英治文化賞受賞)を取材し、ハバロフスクまで出かけた山崎さんは、取材を重ねて身近な体験者の貴重な話を聞く作業の大切さと読者を意識して工夫をしながらまとめる難しさを述べました。 小学生の頃から漫画家を志していたというおざわさんは、元抑留者の絵画展を訪れたことがきっかけになって父親の抑留体験をもとに、『凍りの掌 シベリア抑留記』(小池書院、2012年・新装版=講談社、2015年)を、母親の空襲体験をもとに『あとかたの街』(講談社コミックプラスBELOVE、2015年)を発表、2015年第44回日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞するなど高い評価を得ています。抑留中に使った道具の細部にわたるまで、考証に時間をかけて調べているそうです。その仕事ぶりを当事者だった父親に評価してもらえたのが嬉しかったと語りました。お二人とも今後も抑留や戦争体験のテーマにした作品づくりは続けたいと意欲も述べ、互いにエールを送りました。 ソ連からの帰還終了から60年を経て、帰還者たちの訃報があいついでいます。加藤九祚先生の後を追うように、2014年の講座で体験を話していただいた猪熊得郎さんも同じ9月に急逝され、ショックが広がりましたが、バトンを受け継ぐ伝承者や表現者も確実に歩みを続けていることも確認でき、すこし安堵できたという感想も寄せられました。(まとめ=編集部)
【<聴く・知る・学ぶ>】
●12/18故・猪熊得郎さんをしのぶ会開催 昨年9月26日に逝去された猪熊得郎さん(享年88歳)をしのぶ会が12月18日東京港区の大阪経済法科大学・麻布台セミナーハウスで開かれました。猪熊さんにお世話になった不戦兵士・市民の会、日本戦没学生記念会(わだつみ会)、NPO法人ブリッジ・フォー・ピース、戦場体験放映保存の会、シベリア抑留者支援・記録センターの5団体が合同で呼びかけたのもので、約50人が集まり、故人を偲びました。 最初に、猪熊さんの歩みを映像で記録したドキュメンタリー映画『語らずに死ねるか』(制作:ユニモト、2009年)が上映され、黙祷の後、元抑留者の中島裕さんの音頭で献杯。関係団体の代表や参加者から次々、急逝を惜しみ、今後も戦場・抑留体験を語り継いでいこうとのスピーチが続きました。著作や関係の資料も展示されました。猪熊さんが作った詩も二男の恒和さんの朗読で紹介されました。 他方、長男の和幸さんによれば、「家では普通の昭和のオヤジだった」との印象で、後年外でしばしば語っておられたほど、家の中で戦争・抑留体験を話していたわけではないなどの打ち明け話も披露され、打ち解けた雰囲気でのしのぶ会となりました。
●2/24海外から若手研究者招き初の国際会議 2月24日、法政大学で「第二次世界大戦史研究(ソ連における外国人捕虜問題)」と題した国際会議が開催されました。 ロシアの公文書史料を使った研究を長年続けている若手研究者をロシア、イギリスから迎えて、よりグローバルな視点で第二次世界大戦史とシベリア抑留を捉えることを目的に開かれたもので、ロシア科学アカデミーロシア史研究所のセルゲイ・キム博士が「ロシア公文書史料にみるソ連における日本人捕虜」、ケンブリッジ大学アジア・中東研究科のシェルゾッド・ムミノフ博士(第1回村山常雄記念シベリア抑留研究奨励賞受賞)が「“冷たい収容所”から冷戦まで:ソ連収容所からの日本人帰還者と日本をまたぐ超大国の対立1949年〜1956年」、ロシア軍事科学アカデミーのウラジーミル・フセヴォロドフ教授が「ソ連におけるドイツ人捕虜1941年〜 1958年」と題してそれぞれ報告。 司会や通訳も加藤聖文国文学研究資料館准教授、小林昭菜法政大学兼任講師(第1回村山記念研究奨励賞受賞)ら日本側の若手研究者らが中心になって進められたもので、新しい国際的な視点から捕虜・抑留研究を広げていく可能性が示された有意義な会合でした。
【<訪ねる>高尾山頂のシベリア抑留供養碑】 新宿から電車で1時間、高尾山の山頂近くに元抑留者の佐藤甲子雄さんが2010年に建てた供養碑があります。今月93歳になる八王子市在住の佐藤さんと一緒に高尾山に登り、慰霊碑にお参りしてきました。 ケーブルカーの高尾山駅から約1キロ、坂を上って行くと、山頂の薬王院文舎利塔の隣に、佐藤さんの故郷の山梨で見つけた自然石にはめ込んだ御影石の石盤に「望郷 シベリアに眠る抑留者供養碑」と刻んだ碑が建っていました。 佐藤さんが抑留されたのはイルクーツクの先のタイシェット。バム鉄道建設のための森林伐採や枕木敷設に明け暮れた毎日だったとのこと。 ある日、製材工場で千葉県出身の仲間が、丸鋸に誤って引き込まれて無残な死を遂げます。4年9ヶ月の抑留を経て1949年の帰国後も、その最後の様子が目に焼き付いて離れず、供養を心に誓います。 材木業・不動産業をやりながら、消防団活動にも長年献身。744(天平16)年創建の高尾山薬王院大僧正の特別の賛同・許可を得て、建立が実現したものです。 2010年10月の除幕式・開眼法要には雨の中、180人もが参列したそうです。 以前は毎月登って参拝していたが、高齢のため、最近は年に何回かにペースダウン。この日もゆっくりした足取りで、一緒に登って案内くださいました。碑の隣には佐藤さん作詞の「嗚呼シベリア鎮魂歌」の歌碑が立っています。その歌詞の最後は「平和を叫ぶ友の声 耐えし抑留 その史実 語り伝えよ 北斗星」と締められています。「解釈はいろいろあるでしょうが、史実を明らかにし、とにかく正確に伝えてほしい」と強調しておられました。 高尾山にお出かけの際は、ぜひ山頂の供養碑にお参りください。(編集部)
■寄贈資料などの送付先のご案内■ 資料や図書などを寄贈いただく場合は、下記あてにお送り下さい。あらかじめご一報いただけると幸いです。 ⇒ 〒06−0041 港区麻布台1−11−5 大阪経済法科大学・麻布台セミナーハウス702号「抑留問題資料室」 (Tel)080−5079−5461(*毎週月曜日に資料整理作業をしています。)
■8月23日「シベリア抑留犠牲者追悼の集い」ご案内■ 日時: 8月23日(水)午後1時〜2時 会場: 国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑 次第: 黙祷・追悼の言葉・献花 どなたでも参加できます。12:00,12:30に九段下から会場直行無料バスを運行します。終了後、懇談会も開催します。ご予定下さい。
【編集後記】 2017年を迎え、生存する抑留体験者の平均年齢は今年94歳になります。昨年後半、訃報が相次ぎ、つらい日々が続きました。しかし、11月・12月に九段で開催したスケッチ・絵巻物展示には、お元気な方が来場くださり、新しい出会いもありました。先に逝かれた方々が遺された作品が、出会いを導き、次世代を育て、励ましてくださっていることに感謝です。内外各地での記録・資料の保存・発掘・展示を一層呼びかけたいと思います。<有光>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 編集・発行:ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター ―捕虜・抑留体験を語り、聞き、書き、描いて、次の世代と世界に伝えよう!― 〒162−0823 東京都新宿区神楽河岸1−1 セントラルプラザ10階 TVACメールボックスNo.69 (Tel)03−3237−0217 (Fax)03−3237−0287 (E−mail)cfrtyo@gmail.com (URL)http://sdcpis.webnode.jp/ 郵便振替:00180−3−464926「シベリア抑留者支援センター」 (年会費=3000円・賛助会費=5000円・会員&ボランティア募集中)
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