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2020年12月02日19時43分掲載
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社会
<a care-worker's note・4>共感をもって協力し合う介護「ユマニチュード」について その2 転石庵茫々
介護職になることを決めた時に、介護についての知識も経験もゼロだったので、失業保険を利用して、職業訓練校介護サービス科へ半年間通った。授業時限数は、約800時限で、修了時には、介護福祉士国家試験の受験資格の2つのうちのひとつである実務者研修修了証をできることとなっていた。(もうひとつの受験資格は、実務経験3年以上)。授業は、1時限45分間を2時限連続90分間で行い、1日に90分授業中が4回あった。半年間で800時限ぎりぎりの設定だったので、1日たりとも休むと修了証にはたどり着けないこととなった。風邪やインフルエンザなどの長期休暇を要請される病気は大敵で、健康に気を使いながらの学校生活だった。
学科のなかに、「コミュニケーション技術」があり、時限数は28時限で、90分授業で14回だが、僕の通った介護サービス科担当教員は、「コミュニケーション」に重きを置き、予備の時限もコミュニケーションの授業に当てていた。 学科自体の内容は、コミュニケーションについての基礎理論から介護現場における介護対象者本人や家族への関わり方への概論と具体的な介護状況を想定したコミュニケーション技術の説明、チームで介護にあたるうえでのお互いのコミュニケーションのあり方や、チーム介護関係者のあいだで介護情報を効率的に共有するためのさまざまな仕組みが紹介してあった。 ユマニチュードについても、これらの講義の中で新しい技術として触れられていたが、介護対象者との信頼関係を築いてゆく方法について、なるほどなぁと感心はしたもののすぐに忘れてしまっていた。
就職して、現場で突き当たるコミュニケーションは、利用者さん(介護の対象者の呼称)に向けてと介護職同士や看護師そのほかの現場のひとたちに向けての2種類となる。後者については、稿をあらためるとして、前者である、利用者さん対象のコミュニケーションが研修の場で語られるときに、印象的なのは「接遇」という言葉だった。 利用者さんに対して、どのような接遇をしているのか、利用者さんの尊厳を十分に考慮し、利用者さんを傷つけたり、上から目線での接遇をしていないか、ということが、経営者から問われることになる。中でも、経営者から言われる接遇の筆頭は、おそらくどの施設でも、「利用者さんを呼ぶときに、名字に様をつけてお声掛けしているか!」といったことだと思う。 なぜ、名字に様をつけるのかという答えは、様々で、利用者さんは、大事なお客様だから、失礼がないように「様」をつける、名前でお呼びするのは、なれなれしすぎ、または、幼児扱いで利用者さんをバカにしている風に聞こえるからとか、となる。(「利用者さん=お客様」かということについては、別稿にあらためる)
「接遇」とは、利用者さんの名字に「様」をつけて呼ぶことから始まるといった感じだ。 ぶっきら棒に書きすぎたかもしれないが、経営者から伝わってくる「接遇」のイメージは以上のようになる。もちろん、特に呼称については、虐待につながる利用者さんへの上から目線の排除、利用者さんとの適切な距離感を取れなくしてしまうことへの回避、などがあり、介護の現場で長年蓄積されてきた失敗の経験からきた警戒感に基づいたもので、なるほどと思うこともある。 しかし、「コミュニケーション」が「接遇」という言葉に集約されていったときに、利用者さんとの信頼関係を築いて介護作業を行ってゆくといった姿勢が、希薄に感じられるのは、僕だけだろうか。
「人間はひとりでは生きてゆけない」という人間観から始まり、「介護に必要なのは、感情と優しさ」であるといった考えから展開したユマニチュードでは、介護の現場でのコミュニケーションを具体的に、どう始めて、どう展開してゆくのかを見てみよう。
◇絆の形成-ユマニチュードの4つの柱 ユマニチュードでは、生物として生誕したことを第一の誕生、人間として社会に受けいられ、人間としての自意識を持ったことを第二の誕生として、高齢や障がいなどにより、他人との「絆」で生きてゆくことを自覚するように成ることを第三の誕生と呼んでる。 「絆」という日本語は、原文をあたってみたい語だが、それはさておき、ここでの「絆」とは、人間は社会性のある生き物であり、一人では生きて行けないことを、有り体に言えば、他人に依存して生きてゆく生き物であることを前提とするユマニチュードの考え方から来ている。
そして、より良い絆を結ぶための具体的な方法として、ユマニチュードでは、「見る」「話す」「触れる」、そして「立つ」ことを援助するという「ユマニチュードの4つの柱」を定めている。わかりやすく言えば、「あなたのことを大切に思っている」と相手に伝える技術だ。ひとつずつ見てみよう。
◎「見る」・・・眼差しを注ぐ 目の前にいる相手を見ないということは、「あなたは存在しない」というメッセージを発信していることに他ならない。また、相手と同じ水平な高さで、正面の位置から、近い距離で、時間的に少し長く相手を見たときに伝わるのは、「平等」「正直・信頼」「やさしさ・親密さ」「友情・愛情」といったメッセージとなる。そして、職業人として相手を「見る」ために、相手が自分とアイコンタクトを取りやすい角度をあらかじめ探して、意識的に視線をつかまえるような近づき方をしているか、と問われる。 利用者さんの視線を捉えて近づいたり、声掛けしたりするのは、介護の現場で、僕が実践していることのひとつであり、居室に入り、こちらに背を向けて壁に向かっている利用者さんに壁の方に身を乗り出して視線を合わせてゆくと、眼があった瞬間に利用者さんが笑ってしまっていることがある。笑ってもらえば、あとは一緒に笑いあって親しくなるだけだ。もちろんいつも上手くゆくとは限らないが、視線を相手に合わせるという行為には、それだけで妙なおかしみがあることのようだ。
◎「話す」・・・やさしくおだやかに 話しかけることの基本は、実はだれでもわかっているように、愛する人や、赤ちゃんに話しかけるように、声のトーンは、やさしく穏やかに、言葉も愛情深く、穏やかに、相手の尊厳を傷つけないようにすることだ、という。 さて、ここでは、話さない人たちあるいは機能的に話せない人とどう話すかという課題がでてくる。 この件に関しては、先輩介護職員からとても良いアドバイスをもらったことがある。その先輩は、認知度の高い人、耳の遠い人などに介護作業を行うときに自分の行おうとしている内容をあらかじめ伝え、介護作業に入ると自分で自分の実況放送をおこなっていた。ひとつは、自分への注意喚起ということがあり、もうひとつは、この実況放送をおこなっていると無表情だった利用者さんの顔に表情が現れてきたり、体位変換のときに協力してもらえるようになってきたからだと言っていた。 僕も早速、先輩に教わった通りに実践してみたら、効果があり、どことなく自分でもおかしみがあり、楽しくなった。TV界では、プロレス実況で名を馳せた古舘一郎がパフォーマンスで行っていた自分実況中継放送が有名だが、これは、介護職のひとにはお勧めしたい。 ちなみに、話さない人に話しかけるこの自分実況中継放送をユマニチュードでは、「オートフィードバック」と呼んでいる。 オートフィードにも実行する上で、以下の二つの原則がある。 1. まったく反応しない人であっても、自分で動くように依頼する。「腕を上げてください」3秒待ち、また、お願いする。2回とも反応がないときには、「私の頬をさわってください」「天上のほうに手をあげてください」と言葉を換えてみる。 2. それでも反応がないときには、ケアをおこなう動きを実況するオートフィードバックをはじめる。
◎「触れる」・・・広く、優しく、ゆっくり 他者に依存し、ケア(介護、介助)が必要になった人は、快・不快の情動を頼りに生きている。だからこそ、プロフェッショナルとして、意識的に「広く、優しく、ゆっくり」触れる必要がある。 触れることでの重要なポイントは、皮膚から伝わる感覚の情報は場所によって違うということだ。 利用者さんに触れてゆくときも鈍感な場所から優しくゆっくりと触れてゆく「背→肩→腕→腹→胸→手→顔」ことが大切だ。 また、入浴介助の際のお湯掛もこの順番で行うことをすすめている。ただ、これは、シャワー浴の場合で、例えば、寝たきりの利用者さんをストレッチャーで洗って、浴槽に入っていただくときには、「洗髪(人によってですが、洗顔も)→足からの全身お湯かけ→首の辺りから足に向けて下がってゆく→背中・陰部→全身お湯かけ→浴槽」となることが多いのではないだろうかというのが、介護仲間にも聞いてみた結果だった。 重要な補足をすると、「掴むこと」は、「触れる」ことでないということだ。力の使い方については、ユマニチュードでは、触れるときには5歳の力、移動の時には10歳の力まで、となっている。
◎「立つ」ことを援助する 「立つ」とは、ケア対象者が「立つ」ことを援助をすることだ。 「人間の尊厳は、立つ事によってもたらされる側面が強く、これは死ぬまで尊重されなければなりません。」というユマニチュードでは、「立つ」ことは、大切なキーワードであり、行為となっている。人間の尊厳とは何か、という問いをたてることよりも、人間の尊厳をもたらすものをユマニチュードは大切にしており、「立つ」ことはそのなかでも優位にある。 日本で撮影されたユマニチュードの開発者2名の実践ビデオでは、立って歩くことをあきらめてしまいふさぎ込み壁に向かって寝ているひとに、視線を合わせにゆくことから始まって、立ってみようと話しかけ、本人の同意を得て、両脇をふたりで支えて、立って歩いてみる(動いてみる?)というのがあった。両脇を支えながらも立って歩いたときの、その人の実に嬉しそうな顔が印象的だった。「立つ」「歩く」という行為の中に、自分の生そのものを立たせて歩ませているような人間の根源的な楽しさがあることを体全体で思い出した、その喜びが顔や体からあふれ出していたようだった。「立つ」ということは、生理的メリットにとどまらず、深く心理的メリット、生きてゆくことへの意欲を強く呼び起こすものであることがわかる。 具体性を欠かさないユマニチュードでは、ケアを受ける高齢者に一日に20分間程度立っている機会をつくることを提案している。手洗いやトイレに、あるいは歯磨きなどで立っている少しずつの時間を足して、一日で20分になることを目指している。
以上が、「ユマニチュードの4つの柱」の概要だが、ユマニチュードでは、これをもとにして、ケアする人の存在に気づいてもらい、“この人とは良い時間を過ごせる”と利用者さんに感じてもらうためのアプローチを提案している。
◇ユマニチュードの5つのステップ このアプローチは、高齢者、障がい者などのすべてのケアを行うことのできる手順であり、「出会いの準備」「ケアの準備」「知覚の連結」「感情の固定」「再会の約束」の5つのステップを設けている。 各ステップのポイントを見てみよう。
1.出会いの準備 自分が来たことをケア対象者に知らせ、これから始めるケアの予告をする準備となるステップで、ケア対象者の居室への訪問の仕方が具体的に紹介される。 �� 3回ノックする。 �� 3秒待つ。 �� 再び3回ノックする(1回目のノックで返事があれば不要) �� 再び3秒待つ �� (反応がなければ)1回ノックし、「失礼します」と声をかけ部屋に入る。 �� ベッドに近づいたら、足元のベッドボードを1回ノックする。 これは、今日からでも使えるノウハウだ。施設介護の場合、入室前にノックする習慣は、居室内に利用者さんが不在の時にでも行うほど習慣になっているが、相手の返事を入念に確認するということまでは、気が回らなかった。1回ノックして、入室して、傾眠の利用者さんを驚かせたことは、数多くある。
2.ケアの準備 これから行うケア作業についてケア対象者から合意を得るためのプロセスを行うステップ。 �\橘未�ら近づき、相手の視線をとらえる。 �¬椶�合ったら2秒以内に話しかける。 ��最初からケア作業(これからオムツを替えます、等)の話をしない。 �ぁ峺�る」「話す」「触れる」の技術を使う。(いきなり触れたりしない) 以上の所要時間は、20秒から3分。これまでのユマニチュードの実践では、平均40秒以内で終わっているらしい。つまり、面倒な手続きのようでも、とても短い時間しかかかっていない。ベテランほど手際よく行っていることだが、ケア対象者によっては、数分間かかってしまうこともあると思われる。 例えば、トイレ誘導が難しく、そのままにしておくとリハパンから便漏れになり、居室の汚れ、衣服の汚れから全身更衣の必要が予想される、とある利用者さんの場合は、そのひとの好きな植物の話に持ってゆくために、天候の話から入り、その天候だと植物はどうだろうというあたりで、笑みがこぼれてきたところで、やっと、トイレにゆきませんか、ということにしている。この手続を省略すると、多くの場合、不機嫌、不穏になり、居室に閉じこもり、ベッド上か床上で失禁が始まることが多くなってしまう。
3.知覚の連結 知覚の連結と言葉は難しいが、具体的には二つのこととなる。 ・常に「見る」「話す」「触れる」のうちの2つをケア対象者に行うこと。 ・(介護対象者が)五感から得られる情報では常に同じ意味を伝えること。 優しい笑顔で「服を脱ぎますよ。大丈夫ですね。」と言いながら、つい手首を掴んで(掴むことは、禁じ手)乱暴な行為をすることは、利用者さんには、ポジティブなメッセージと負のメッセージの両方が伝わってゆくことになり、混乱を与えるばかりとなる。 さらに、具体的な例として、ふたりで入浴介助するときに、「マスター」と「黒衣」に役割分担することが述べられている。マスターは、「見る」「話す」役で、黒衣は「触れる」=入浴介助作業に徹する役となる。
4.感情の固定 これも言葉は難しいが、「ケアが終了したあとに、気持よくケア出来たことを利用者さんの記憶にしっかりと残し、次回のケアにつなげること」をするステップ」となる。 ・ケアの内容を前向きに確認する。→「入浴は気持ちよかったですね。」 ・相手を前向きに評価する。→「入浴してさらに素敵になられましたね。」 ・共に過ごした時間を前向きに評価する。→「わたしもとても楽しかったです。ありがとうございます。」 ・前向きな言葉、友人としての動作で→ポジティブな「感情記憶」を残すことが肝要。 「この人は嫌なことはしない」という感情記憶を残すことが目的で、やや大げさに表現することが重要!とあり、そのためには、介護職などの共に働く人たちからの理解も必要とある。
5.再会の約束 ケア作業を終え、離れる前に、「再会の約束」をする。これは、記憶ができなくなっている人たちに対しても大切なことだという。ポジティブな何かを約束するのは、「この人は、また、来てくれるんだ…」という期待をもつ感覚を感情記憶にとどめてもらえる可能性があるためである。記憶ができなくなっている人の場合には、その約束を書きとめておくとより効果的な場合がある。
以上が、あらゆるケア作業で応用できる絆をつくるための5つのステップの概略だ。 ユマニチュードの「4つの柱」「5つのステップ」は、ケア(=介護)というものが、人間同士の共同作業であり、それがゆえに、まず第一に、人間同士のコミュニケーションの絆を築いてゆくことが必要であることを具体的な方法で提案していることが素晴らしいと思う。 開発者二人の愛情をもって人間に接する信念の深さ、人間に対する信頼、職業意識の高さと矜持を強く感じ、介護職での自分のあり方について、考える機会をもらうことができた。
◇コミュニケーションについての不思議な授業 僕が学んだ介護サービス科では、コミュニケーションの教科を規定の時限数よりも多く設定したことを冒頭に述べた。座学である一般的なコミュニケーション論だけでなく、時には、RPGを取り入れての授業もあり、障がいがある高齢者に扮した先生や生徒に対して、どう接するかということをシミュレーション的な状況劇として行った。うつ病的になっている、あるいは、強い帰宅願望に襲われ施設内をさ迷っている設定の利用者を、気分転換のためにレクリエーションに誘うことなどがテーマとして取り上げられ、介護士に扮した生徒の対応の仕方に対して、生徒同士の討議や先生による寸評指摘が行われた。
ある日、野外授業があった。野外授業自体が初めてで、しかもコミュニケーションの教科だったので、先生の指示で、学校近くの大きな公園におもむいた生徒たちは、どんな授業になるのか、想像もつかなかった。 冬支度に入り、紅葉も見納め時になっていたなかで、先生からの課題が通告された。 「この公園の中にある、大きな木、小さな木、池、小さな小屋みたいなもの、神社・・・ひとではない、それらのなかから一つ選んでひとりで対話してきてください。そして、ひとりで対話しながら、その記録をメモしてください。あとで発表しあいます。」 「・・・」 「それでは、自分が対話してみたい相手を探して、すぐに始めて! しばらくしてから集合を掛けます!ひとりですよ!」 ぶつぶつ言いながらも、生徒たちは三々五々、自分の場所を探して公園に散らばっていった。僕は、大きな樹木を見つけ、正面らしきところに座り、眺めていたが、そのうちこの大木と対話したらどうなるだろうかとメモを書き始めていた。 やがて、1時間ほどが過ぎて集合がかかり、どこか浮かぬ顔の生徒たちも教室に戻り、各自の対話メモの発表会となった。 多くの生徒が僕のように樹木や植物を相手にしていたが、なかには、池やらベンチやら神社やら、神社の石畳みの参道やらをあいてにしている生徒もいた。無生物と対話するという発想は僕にはなく、新鮮だった。 もっと新鮮だったのは、各自が想像以上に対話していることであり、相手に合わせて、例えば木だったら、そこに立っているのはどんな気持ちですかと尋ねることから始めて、私だったらこうですが、あなたはどうなんでしょう、と相手に尋ねつつも自分のことをおりまぜて、さらに突っ込んだ内容の会話になってゆくようなことが、その人のいかにもその人らしい個性的な言葉で綴られていることだった。ふだん長い時間をいる同士なので、いつのまにかお互いに知ってしまった個性が、不可思議な相手との対話相手に寄り添うほどにユーモラスに露呈されて、そのことを本人が驚いたり恥ずかしがったりして捧腹絶倒の発表会となった。
これは、もうコミュニケーションというよりもアニミズムの授業といった方が的を得ているかもしれない。 アニミズムとは、「自然界の諸事物に霊魂・精霊などの存在を認め、このような霊的存在に対する信仰。」(デジタル大辞泉)という原始的信仰であると19世紀の人類学者タイラーから言われてきたが、その後いろいろな理解がされており、現在では、一方的に自然物に霊が宿ると見立てるだけではなく、「自己と自然物が霊を共有し、神秘力によって自らも生かされているという受動的な主体の感覚を看過している」という理解もある。自己と自然物が共有する感覚を発見するという出来事を経験することのようで、自然物と人間との出会いの中で、ある瞬時に起きていることを捉えているのがアニミズムといえる。 例えば、石と人間が出会った場合、「石が姿を現すまさにその瞬間に、目の前にいきなり現れる世界を捕まえようとすれば、経験と想像力、事実と想像は溶け合って、石が動き、話すさまを目のあたりにすることができる」(ティム・インゴルド)のが、アニミズムであり、石に無生物の塊しか見えない僕たちには失われてしまったリテラシーだ。 このアミニズムの背景にあるのは、霊とか神秘と言われるものではなく、「他者を真剣に受け取る姿勢」(ティム・インゴルド)なのではないだろうか。
「する/される」の概念に囚われている現場に携えてゆける新しいコトバを探して、ユマニチュードに出会ったことを先に書いた。ユマニチュードを学んでいったときに、今書いている不思議な授業をよく思い出した。ユマニチュードのコトバの深層には、人類学者たちが人類に普遍的にある文化から理解し抽出してきたアニミズム「他者を真剣に受け取る姿勢」があるような気がしてきたのだった。
(注)アニミズムについては、「モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと」(奥野克己・亜紀書房)から引用参照させていただきました。
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