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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2025年08月13日15時19分掲載
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国際
タイ・カンボジア国境戦争と大東亜共栄圏 戦後80年、日本の負の過去を考える
タイとカンボジアが7月末から国境地域で戦火を交え、両国の市民、兵士が死傷し、多数の避難民が発生した。両国とも戦争拡大は望まず停戦に合意したが、国境戦争は今回が初めてではない。フランスの植民地支配に起因する国境問題をめぐって衝突を繰り返してきた。また日本もこの仏領インドシナ(仏印)に軍事介入した過去がある。戦後80年のいま、日本のアジア侵略戦争の一コマも忘れないようにしたい。(永井浩)
タイ(シャム王国)は東南アジアで唯一欧米列強の植民地とならず、独立を維持したことを誇りとしている。それを可能にしたのは、この地域に進出した帝国主義国間の勢力争いをたくみに利用した外交能力だとされる。 タイの西側のインド、ビルマは大英帝国、東のベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナはフランスの植民地とされ、両国はつぎにタイに触手を伸ばしていた。 フランスは1893年、軍艦2隻をチャオプラヤ川に遡上させ、バンコクを封鎖した。これに対してタイは武力対決せず、主権維持のためにフランスに譲歩し、安全保障上それほど重要でないとおもわれる領土の一部を割譲した。名より実をとる柔軟な外交を選択したのである。 だがこのとき作成された複数の地図には曖昧な部分が残されていた。フランスは20世紀初頭、国境地域のヒンズー教寺院遺跡プレアビヒアやその周辺の諸州をタイ側に含めるものと、カンボジア側に含める二つの異なる地図を作った。これがその後の両国間の対立の火種となった。特にプレアビヒア寺院の扱いが問題となった。 フランスが1954年にインドシナから撤退すると、タイは同寺院を占拠。いっぽう独立国となったカンボジアは、フランスの地図を根拠に寺院は自国に属すると主張して、国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。ICJは1962年、寺院はカンボジアに属すると判断した。タイは判決を受け入れたが。寺院の周辺地域については引き続き領有権を主張した。 2008年にカンボジアがプレアビヒア寺院をユネスコ(国連教育科学文化機関)に世界遺産として登録申請し、認められると、両国の紛争が再燃した。2011年には激しい武力衝突で民間人、兵士が死傷し、多数の避難民が発生した。 今回の軍事衝突は両国の実質的政治指導者の関係悪化が主因とされるが、火種は残されたままなので、根本的な解決は容易でないと見られている。
こうした欧米列強のアジア支配のうごきが東南アジアからさらに中国へと拡大していくなかで、遅れて帝国主義国の仲間入りをした日本も中国、朝鮮への対外膨張をめざす。日本はその競争で欧米との関係が悪化していくと、自らが欧米列強に代わってアジアの盟主たらんとして大東亜共栄圏の建設をめざそうとする。 日本は1931年の満州事変を境に仏印を重視するようになる。重慶に移動した中国国民党政府の補給路を遮断するために仏印への進駐を計画、第二次世界大戦下でフランス本国がナチ・ドイツに敗退したのを機に、日本軍は1940年に北部仏印(ベトナム北部)、1941年に南部仏印(同南部)に進駐した。 日本はいっぽうでタイを、ビルマ(現ミャンマー)、マレー半島侵攻の橋頭堡と位置づけていた。日本はフランスとの国境紛争の調停に入り、仏にカンボジアの北西部諸州をタイに割譲させた。タイを戦争遂行に協力させるための布石を打った日本は、1941年に日・タイ攻守同盟を結んだ。日本軍はカンボジアにも進駐した。 日本軍の進駐により、カンボジアの主要輸出品であるゴム、米、コショウなどの世界市場への輸出が停滞し、滞貨増にともなう価格の暴落、農園での賃金不払いが生じた。戦況の悪化とともに物資の徴発や住民の徴用もあいつぎ、住民の生活を圧迫した。 戦争末期、ビルマ戦線で敗退した日本軍がタイ経由で相次ぎプノンペンに逃れてきた。 だがカンボジアは戦後、日本に対する戦時損害賠償の請求権を放棄した。シアヌーク首相は、仏教精神にもとづいて「日本国民が敗戦で苦しんでいるときに、それを要求するのはしのびない」からだと説明した。 しかし日本では、「東洋平和」のためと称して仏印でおこなわれた自国の侵略行為について戦後の教育でもほとんど教えられてこなかった。 そして1992年に、冷戦時代からつづくカンボジア内戦に終止符を打つため、国連のカンボジアPKO(国連平和維持活動)が始まると、日本は自衛隊を派遣した。自衛隊の任務はPKF(平和維持軍)への参加ではなく、道路補修だったが、カンボジアの政府とメディアは自衛隊を「日本軍」と呼んだ。
タイ・カンボジア国境戦争は対岸の火事としてではなく、日本のアジアとの負の過去を知るきっかけとなる出来事でもあった。それを踏まえて戦後日本の平和を考えることもできたはずである。だが私の知る限り、戦後80年関連の情報があふれる新聞、テレビにそのような報道は見られなかった。戦争の被害は語られても、加害は素通りされたままである。 それでも、すべての日本人がそのような問題意識を持っていないわけではない。 6月23日の沖縄の「慰霊の日」の式典に参加するため沖縄を訪れた、ノーベル平和賞受賞の日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員・田中重光さんは、玉城知事と平和について語り合った。 玉城知事は「日本は被爆国なのだから、戦争の愚かさを二度と再びアジアで火種にしてはならない」と述べ、沖縄や長崎、広島で行われている平和教育の意義について説明した。「教育のなかで共通した平和に対する思い作っていくことが大切だ」 これに対して田中さんはこう応じた。「被害と同時にいろいろな加害の問題も伝えなければ、世界、特に東南アジアの人たちには伝わらないと思う」
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