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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2008年05月19日20時36分掲載
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チベット問題
国際世論との「全方位白兵戦」となった五輪開催国・中国 陳彦(ソルボンヌ大学歴史学博士)
■パリは聖火をどう迎えたか
4月6日、欧州に入り、7日にパリへやってきたオリンピックの聖火は、エッフェル塔をスタートし、凱旋門とコンコルド広場を通って全長28キロをリレーする予定であった。パリでは3000人余りの警官が出動し、水陸空全方位の厳戒警備体制となった。聖火の周囲は400人あまりの人員がとりかこんで長い列をつくり、32台の国家保安部隊の軍用車、65台のバイク、ローラースケートをはいた400人あまりの警官が従い、さらに1600人余りの警官が沿道を警備した。空と水上からの抗議活動を防ぐため、パリ上空はヘリコプターが旋回し、セーヌ川には警備の船舶が航行した。 2004年、アテネ五輪の聖火リレーのとき、パリが歌と踊り、大道芸にオーケストラで迎えたことを思うと、このものものしい光景とは大違いである。
■チベット問題で期待は失望へ
聖火をめぐって起こった過激な対立は、中国と国際社会との価値観の違いをくっきり浮かび上がらせた。しかし、違いを見るだけでは万全とは言えない。我々は距離をおいて広い空間から解読しなければならない。
チベットの暴動事件は、中国政府にとって1989年の天安門事件以来のきびしい試練であった。改革開放を始めて30年来、国際社会、ことに西側世論の中国政府に対する批判や中国の人権問題への非難がやむことはなかったが、チベットでの衝突によって起こった批判の重さは天安門事件に匹敵する。異なるのは天安門事件が中国内部の民族問題におよばなかったことと、オリンピックの成功いかんにかかわることもなく、従って近代以来ずっしり積み重なってきた民族主義的感情に触れることもなかった。しかし、89年の天安門事件と、それに伴う国際的反応も今回のチベット危機とその結果とはまったく別だというわけではない。
89年は改革のカギとなる年だった。改革の発起人の一人、胡耀邦がその年の4月15日に死去し、大学生たちが哀悼の意を示したことから政府に対して民主改革を求めるデモンストレーションに発展した。4月から5月にかけ、北京を始め中国全体から起こった民主への呼びかけは国際世論の大きな関心を引きつけ、民主化に向かう中国の将来に無限の期待が生まれた。だが、6月4日未明の銃声とそれに続く徹底した逮捕劇は、学生たちの純真な政治改革の夢を打ち砕き、西側世界が期待した中国の民主の曙は露と消えたのだった。
大きな期待の後の大きな喪失感、2001年、国際オリンピック委員会が08年の夏季オリンピック開催地を中国に決定したとき、中国は人権問題を改善することを厳粛に承諾した。当時の中国は十数年にわたる外交努力を続けてきて、さらに経済成長をもって世界の注目を集め、一歩ずつ天安門の暗い影から脱出し、国際世界に大きく踏み出そうとしていた。2001年にはWTOに加盟し、2008年にオリンピックを開催、2010年には世界博覧会を行うことが決まり、世界が両手をひろげ中国を受け入れた。 このときの国際世論は中国がいまだに政治的専制を行う古い国であっても、改革開放によって経済が活発化したことを知っていた。天安門の銃声は中国の政治が進む道を完全に閉ざしはしなかった。まず経済、そして政治、経済成長を先にしてそれから人権改善だとしても中国の悠久の文化的伝統に合っている。天安門事件後の中国共産党は公式に約束してはいないが、「六四」(*)の前非を改める可能性は排除できないのである。 しかしこの数年、中国の政治的進展はこうした期待から離れていく一方であり、期待は失望へと変わっている。チベット危機の勃発は、美しい期待を最終的に破り、失望感が危機のきっかけをつくったのである。
■経済の巨人から新興大国へ
チベットの暴動とその国際的な反応がもたらした問題は、中国の成長に対する国際世論の判断における集団心理にまではおよんでいない。ことに中国のネットユーザの沸騰する反応はその中に入っている。 改革開放の初期段階で89年は中国にとって折り返し点であった。当時の中国は実際、世界システムの片隅を徘徊していた。しかしいまの中国はそうではない。経済においてはすでに世界システムの一部分となっており、中国製品は西側の一般家庭のすみずみに行き渡っている。中国の安価な商品は億を数える消費者に低価格というよさを感じさせ、その品質や製品検査の問題がややもすれば非難されている。10年間で、中国ははるか遠く抽象的でぼんやりした他者から、あらゆるところに存在し、日々ふくらみ続ける経済の強権へと変わった。 もしこうした感覚が主に経済や生活の分野にとどまってきたとしたら、北京オリンピックは中国を経済の分野から価値の分野へと引き込むものとなる。オリンピックの影響力の大きさとその魅力は世界最大のスポーツ競技大会というばかりでなく、人類共通の精神と理念にのっとっているところにある。オリンピックが示す平等、公開、協調、平和という現代の精神は開催国に価値の上で最高の要求をしている。それゆえに人権、自由、民主、対話というロジックがオリンピックに求められるのである。
言い換えれば、開催国となったからには、中国はその全面的な挑戦を受けなければならず、一方では世界世論を前にして役割の転換をしなければならない。国際社会にとって中国はもはや経済成長を続ける巨人にとどまらず、新興の大国にならなければならず、経済、政治、価値の面で全方位的な試験に耐えなければならない。
■最初の「全方位白兵戦」
フランスの大国への批判は前例がないわけではない。03年、アメリカが発動したイラク戦争では、フランスを始め欧州さらに世界各国が動員された。反戦の世論、反戦デモがこのとき全欧州で巻き起こった。アメリカを支持したイギリスやスペインでも政府は国内世論、民意の猛烈な批判にあった。フランスの世論がアメリカ主導のイラク戦争に対して強固かつ持続的に批判を行ったことは民主国家の中でもまれである。その意味で批判と反批判は国際世論の空間では正常に働いている。 しかし、中国という世界システムの新メンバーにとって、チベット事件がきっかけとなった国際世論の批判は中国が全方位的に世界に入った後、国際社会との最初の全方位戦となった。この戦いは中国が世界とリンクするプロセスにおいて必然の結果である。今後、中国が世界に向かって開放し続けるのであれば、こうした白兵戦は再び起こるだろう。 世界に入るという大前提から見て、国際社会とリンクし、衝突する過程で、対話と妥協を学び政治の民主化、人権の尊重という道を歩むか、門戸を閉じて鎖国するあの愚かな時代に逆戻りするのか、中国にはこの2つの選択しかない。
*天安門事件のこと。6月4日に起きたので、中国人は略して「六四」と呼んでいる。五四運動は「五四」、満州事変は「九一八」。
(翻訳:納村公子) 訳注:この記事は四川大地震前に書かれた。
陳彦氏紹介:中国生まれ、82年にフランスへ留学し、87年にパリ大学で歴史学博士号を取得。現在ソルボンヌ大学教授。フランス国籍。著書に『同中国一起思考』(仏文、L'Aube出版社)、『法国当代思想新論』(三聯書店)、『中国的覚醒』(田園書屋)などがある。
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