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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2011年08月30日13時50分掲載
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反戦・平和
マッカーサーが進駐した日 米軍相模総合補給廠の全面返還? 文:平田伊都子 写真:川名生十
1945年の本日、8月30日に一人のアメリカ軍人がタラップを降りてきた。 サングラスにコーンパイプ、ご存知<ダグラス.マッカーサー元帥>である。 日本人は学校で「この人が軍国主義しか知らない日本人に民主主義をもたらした」と、教えられた。 「軍国主義時代に獄に繋がれていた共産主義者や民権運動家達は解放され、マッカーサー万歳!と叫んだ」とも教えられた。 しかし、この人マッカーサーは共産主義が大嫌いで、「日本は四等国」とか「欧米白人が43才としたら日本人は12才にも満たない」などと、のたもうたのである。
* ダグラス.マッカーサー元帥(1880~1964)
「メルボルンから東京まで長い道のりだった、、しかし、これで万事終わったようだ」と、専用機パターン号から厚木基地に降り立ったマッカーサーは第一声を発した。 その後マッカーサーが直行したのは、横浜の超高級ホテル<ニューグランド.ホテル>。 戦前に新婚ホテルで泊まったとかで、港が見える315号室に陣取り、GHQ連合国軍最高総司令官として日本占領の仕事を始めた。 このホテルは今も健在で、ドリアやナポリタンがご自慢のフレンチスタイル料理(?)を売り物に、一泊2万円以上の超高級ホテルだ。 占領政策を始めて2年にしかならないのにマッカーサーは「日本の民主化大成功」とか「日本の占領統治大成功」と、自分の仕事ぶりを誇大宣伝し始めた。 彼の狙いはGHQ連合国軍最高総司令官ではなく、アメリカ大統領だったのである。 大統領選に向けて、軍人色を消し、リベラルなイメージを打ち出す必要があった。 そして、1948年4月にウイスコンシン州予備選挙で共和党大統領候補に名乗りを上げた。 が、共和党大会で1094のうち僅か11票しか取れずに惨敗。 なおかつ大統領には、マッカーサーが大嫌いな民主党のトルーマンが選ばれた。 大統領の望みが絶たれたマッカーサーは、もうアメリカの有権者に媚びる必要がなくなり、共産主義嫌いや人権運動嫌いの本性をむき出した。 対日本占領政策を厳しく引き締め労働運動を弾圧し、共産主義者や労働運動家を再び穴倉に追い詰めていった。
* マッカーサー+マッカーシー =赤狩り
日本占領直後のマッカーサーは「日本民主化の一環として、労働組合の育成をする」と宣言した。 しかし、数百万人参加のゼネストが計画されているのを知ると、マッカーサーはこの<2月1日ゼネスト>を禁止した。 1947年のことである。 以降、マッカーサーの労働運動潰しは激化していく。 1948年、公務員のストライキを禁止する。 1949年、労働組合法や労働関係調整法を改悪する。 1950年5月3日、赤狩りをやる。 共産党員と同調者は公務員や民間企業から追放される。
この頃アメリカ本土でも、似たような名前のマッカーシーが赤狩り(レッドパージー)をやっていた。 病的に共産主義を毛嫌いするマッカーシーの共産主義者追放はハリウッド映画界にも及び、チャップリンやジョンフォードなどの大御所がハリウッドを追放された。 大御所たちを擁護して証言台にたったのが、ダニーケイ、フランクシナトラ、ハンフリーボガード、カークダグラス、バートランカスター、キャサリンへプパーン、グレゴリーペックといった大スターたち。 一方、マッカーシー側の告発者として協力したのが大根役者だったロナルドレーガン、後の共和党アメリカ大統領である。 グレゴリーペックは何故か1978年に<マッカーサー>という伝記映画でマッカーサーを演じている?? 1950年6月25日、北朝鮮人民軍が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発した。 GHQ連合国軍最高総司令官マッカーサーは当然、朝鮮半島の面倒も見なければならない。 マッカーサーは不承不承参戦し、窮地に陥っていた韓国米国合同軍の体制を立て直した。 が、調子に乗って中華人民共和国の国境まで攻め入り、中華人民共和国軍の参戦を招いてしまう。 慌てたマッカーサーはトルーマン大統領に中華人民共和国軍に対する空爆と原爆投下を進言する。 これが命取りとなり、1951年4月11日、来客や妻との会食の最中にGHQ総司令官解任の発令を受けてしまう。 1951年4月16日午前7時23分、マッカーサーGHQ日本占領総司令官は東京国際空港から飛び去った。 時の吉田首相はマッカーサーに<名誉国民称号>を与えると言ったが、返事もしなかったようだ。 日本よりフィリピンが好きで、日本駐在中はフィリピングランドロッジ所属のフリーメースンなんかに日本の称号をやることはない。
* 相模原軍都の今、昔
MASHマッシュという名の朝鮮戦争(1950~1953)を舞台にした血しぶきが飛ぶ最高級のブラックコメデイー映画がある。 MASHとは移動米軍外科病院の頭文字である。 その頃の日本は朝鮮特需と呼ばれる軍需好景気で舞い上がっていた。 世界一の米軍武器弾薬軍需品倉庫兼補修場だった米軍相模総合補給廠は大忙しだった。 前線から送られてくる壊れた戦車、装甲車、ジープ、その他あらゆる兵器の補修と整備で、日本の労働者は1000人以上に膨れ上がり、昼夜を分かたず働き続けた。 米軍補給廠の周辺には鉄工所が林立した。 が、相模原市が軍都化したのは米軍が基地にしたからではない。 相模原市はもともと旧帝国陸軍が計画した軍都だった。 農地だった相模原が、東京から近く平坦でしかも地代が安いことに帝国陸軍が目をつけた。 1930年代後半から急速に相模原軍都化が進んでいく。 1937年に陸軍士官学校、1938年に臨時東京第三陸軍病院、相模兵器製造所、陸軍兵器学校の3施設、1939年に電信第一連隊と陸軍通信学校、1940年に相模原陸軍病院、1943年に陸軍機甲整備学校、、と、合計8軍事施設が建設された。 さらに相模原北部の橋本駅から淵野辺駅にかけては軍需工場が、南部は学校や病院や住宅などが建設された。 大日本帝国軍陸と神奈川県をあげて<新興工業軍都相模原>を目指し、人口10万人を想定して区画整備事業に精を出した。
現在の相模原中心部が広々とした道路と碁盤の目に整備されているのは、日本陸軍の置き土産と言える。 1945年8月30日、日本に乗り込んできたマッカーサーは、日本陸軍が作った相模原軍都をそっくりそのままネコババし、米軍相模基地にした。 相模原兵器製造所は米軍相模総合補給廠、陸軍士官学校はキャンプ座間、電信第一連隊周辺は米軍相模原住宅地と、名前を変えて米軍が使用することになる。
* 米軍相模総合補給廠(通称.米軍相模武器弾薬庫)
現在三つある相模原市の米軍基地の中で一番大きい米軍相模総合補給廠は、通称、米軍相模武器弾薬庫と呼ばれている。 米軍相模武器弾薬庫はJR横浜線橋本駅から矢部駅までの相模原市北部一帯を占めている。 面積214.7ヘクタール、米軍人150名、戦闘指揮訓練センターが完成すると米軍人は300名以上に増える。 朝鮮戦争やベトナム戦争当時は世界最大の武器弾薬庫で、日本人従業員が1000人を優に越えていたそうだ。 管理部隊は在日アメリカ陸軍第17地域支援軍で、米軍相模武器弾薬庫は極東のみならず全アメリカ世界戦略を支えている。 米軍関係の日常生活用品、軍需用品などあらゆる物資を補給保管し、機材の修理を行うと公表しているが、「核関係物資や放射性廃棄物などが保管されているのでは?」という相模原市民の疑問には軍機密を盾に明快な回答をしていない。 何がこの米軍相模武器弾薬庫の中にあるのか知らされないまま、相模原市民は爆発の、それも核爆発の不安にさいなまれている。 以下、米軍相模武器弾薬庫が起こした事件でおもてに出たのを挙げてみる。 ①1972年、ベトナムへのM48型戦車などの輸送問題が起きる。 ②1984年、M109自走りゅう弾砲などの兵器搬入問題が起きる。 ③1988年、ピストル発砲事件が起きる。155mりゅう砲弾搬入事件 が起きる。 ④1991年、105mりゅう砲弾搬入問題事件が起きる。中東向け物資 搬出問題が起きる。 ⑤1992年、鉄砲火気保管問題が起きる。カドミウムを境川に垂れ 流していた! ⑥1994年、極東科学技術センターが横田基地から移設される。 ⑦1999年、有毒物質のポリ塩化ビフェニルを保管していたことが ばれる。 ⑧2009年、朝鮮戦争時の焼夷弾90発を12月4日~7日にかけ処理 し、問題になる。 ⑨2010年、同じく100発の焼夷弾を8月27日に処理し、問題になる
相模原米軍基地返還運動
もし放射性廃棄物が保管されていたら? もし放射性物質が保管されていたら?もし核爆発が起こったら???米軍相模武器弾薬庫から僅か9KMの距離に住む筆者にとって、その存在は限りなく不安だ。 こんな物騒なものは一刻も早くなくして欲しい。 筆者は一住民として、相模原市米軍基地返還促進等市民協議会をまとめている相模原市総務局渉外部に、基地返還運動のことを聞きに行った。 以下は相模原市情報である。 相模原市では1967年頃から基地返還運動が始まった。 現在、相模原市を中心に22地区自治体、農業協同組合、消防団、交通安全協会、商工会議所、PTAなどが母体になり、104人が活動している。 2011年10月に定例年次会合を開き、11月に相模原市米軍基地返還促進等市民協議会による要請書を、在日米陸軍司令官、米海軍厚木航空施設司令官、防衛大臣、外務大臣、駐日米国大使などに提出する。 2008年6月には米軍相模総合補給廠(米軍相模武器弾薬庫)の一部返還が日米合同委員会で正式合意された。 「一部だなんて言ってないで全部返してもらいましょうよ!」との筆者の問いに、「いや~全面返還要求はむつかしい、、日米安保とか日米地位協定とかあってね、むつかし~い」と、相模原市渉外部の副主幹は答えた。 「以前、駅前なんかで全面返還を訴えてましたよ」と筆者がたたみかけると、「共産党さんが独自にやってるようです、、」と、副主幹の返えた。
この原稿を書いていた8月28日、その共産党さんが、「住民のみなさ~ん、この地区の正確な放射能汚染度をご存知ですか?」と、スピーカーでふれ回ってきたのである。 筆者は道路に飛び出し、共産党さんの基地全面返還への取り組みと基地での放射性物資情況を質問した。 「米軍相模武器庫が核兵器をはじめどんな武器を備蓄しているか、我々にも分からんのです。敵は戦闘訓練センターを新設したりで、返す気なんてまったくない。でも我々は全面返還をめざします」と、共産党さんは答えた。 一般相模原住民は相模原市でも共産党さんでもどこの誰でもいい、とにかくこの危険な米軍相模武器弾薬庫を撤去して欲しいのだ。 そして、忘れずに66年の長きに渡った地代を取って欲しい
文:平田伊都子 ジャーナリスト、写真:川名生十 カメラマン、資料:相模原市.基地白書
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1945年8月30日、米国軍人ダグラスマッカーサーが厚木に到着した。
1930年代、旧陸軍相模兵器製造所。戦車や砲弾が作られていた
上から米軍相模総合補給廠、米軍相模原住宅地区、キャンプ座間
米軍相模総合補給廠の正門、カメラを向けると守衛の目が光った
米軍相模総合補給廠を囲むフェンスのいたるとろにある看板
米軍相模総合補給廠では、米軍戦闘指揮訓練センターを建設中
米映画MASHマッシュは1970年カンヌ映画祭でグランプリを受賞した





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