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2012年07月27日12時50分掲載
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アジア
【イサーンの村から】(20)人がつながるということ 森本薫子
タイ人は、本当に家族、親戚、地域内の人との繋がりが強い。結婚しても親との同居はもちろんのこと、親戚が一緒に住むこともよくある。遠い親戚でもすべて含めて一族扱いなのだ。隣の敷地に住む義理の祖父母は、長男の娘を生まれたときから育てている。長男夫婦は離婚してどちらも娘と一緒に住んでいない。祖父母と同居する叔父さん夫婦は、遠い親戚の娘(現在、幼稚園児)を生後2ヶ月から育てている。この子の両親は、出稼ぎに行ったまま帰ってこない。
私もタイの農村を知り始めたころは、家族、親戚、村内で助け合う関係に感動したものだ。でも、実際に嫁の立場となって暮らしてみると、面倒なことももれなくついてくるのが人間関係。モノやお金の貸し借り、鬱陶しい噂話などは、無償の助け合いとセットなので、望んでも単品注文はできないのである。
モノの貸し借りについては、タイに住むならまず慣れなければならない感覚かもしれない。タイ人、特に田舎のタイ人は、「借りた」という意識も薄く、「借りたら返す」という感覚があまりない。勝手に持っていく、貸したものが返ってこない、ということもしばしば。悪気はなくて、ただ単に気にしていないから忘れてしまうだけ。
最初はこれにかなりイライラし、絶対に無くしたくないものは最初から貸さない(隠しておく)という少々意地悪な解決策で対応していた。でもある時、タイ人にとって「借りる」と「返す」は、「開く/閉じる」のような反意語ではなく、全く別のことなのかも・・と思ったら、妙に納得したのだ。そうなんだ、まったく別のことなんだ。そう思うと少しその感覚が受け入れられた(少しですけど)。 「自分のもの」と「人のもの」を区別しない。見方によってはそれは仏教的な考えで、むしろ日本人が見習うべきなのかもしれないと思ったりもする。自分のものを持っていかれても、やっぱり誰も怒らないのだ。
噂話のうっとうしさはタイの田舎に限ったことではないが、人の家で起きたこと、ちょっとしたことが、次の日には村中に知れ渡っていることもある。ほとんどの時間を村の中で過ごし、同じ人と会い、新しい情報はテレビとラジオのみ・・という生活をしていると、人の噂話は日常にちょっとした刺激を与えるささやかな楽しみとなるのかもしれない。日本の田舎では、そんな密な関係が、都会に出ていく理由のひとつになっていたりもする。村で(この県で?)一人の日本人の嫁なので、それなりに噂話のネタにはなっていると思うけれど、そこまで私の耳には入ってこない。何を言われていても、耳に入ってこなければ気にならないのねと、そこは日本人で良かったと思うところ。
家に勝手に人が入ってきたり、勝手にあるものを使ったり食べたり飲んだり・・。それも目くじら立てて怒ることではない。田んぼが隣同士なのでいつもうちに寄る親戚の叔父さんが、うちのコーヒーを毎回勝手に飲んでいく。それも1杯のコーヒーに大匙3杯の砂糖を入れるので(カップの半分がコーヒー、クリーム、砂糖で埋まる)、うちの砂糖の消費量が大変なことに! 買っても買ってもなくなる砂糖に私はイライラして、叔父さんが来る度にストレスがたまっていった。特に、自分の機嫌が悪い時に叔父さんが来るのが見えると、即座に砂糖を隠すこともあった(意地悪な解決策例)・・・。 でも、手が足りない時に作業を手伝ってくれることもある叔父さん。たかが1キロ25バーツ(70円)の砂糖にケチケチしている自分を考えると、なんて私は心がせまいんだろう・・と自業自得になる。なので、せめて自分の機嫌がいい時には、叔父さんが来たら自らコーヒーを入れてあげることにしている。砂糖は叔父さんよりもちょっと少なめで。
「食べ物をわける」というのは、タイ人気質の基本中の基本なのだ。「サワディカー」というのはタイ語で「おはよう」「こんにちは」などの挨拶だと訳されるが、実際、日常的に顔を合わせる人に「サワディカー」というタイ人はまずいない。学校やかしこまった間柄、久しぶりに会った人の場合くらいだろうか。普段は「ご飯食べた〜?」「どこ行くの〜?」というのが定番の挨拶だ。
農村では、食事する場所は、家の前の外のスペースであったり、室内でもドアは開けっぱなしのことが多いので、ご飯を食べていると家の前を人が通った時にすぐに顔を合わせることになる。その時に必ず言わなければならないのがこのセリフ。「ご飯食べた?一緒に食べよう!」。これを言わないと、「おはようございます」と挨拶しないくらい失礼なことなのだ。たとえほとんど食べ終わってしまっていてもこの声掛けは必須。お呼ばれしてもいいのだけれど、通常それに返す言葉は「いいよ、いいよ。もう食べたよ。みなさんでどうぞ」。誘われたらいかなければ失礼かと思い、毎回人の食事におじゃましてしまう・・・というのは、タイ農村に入った当初の私だけでなく、初心者外国人にありがちなことだ。もちろん歓迎してくれるけれど。とにかくタイ人は、たとえ自分の分が足りなくても、おしまず食べ物をわけてくれる。
私が日本国際ボランティアセンター(JVC)のタイ駐在員だったころに一緒に働いていた松尾康範さんの「イサーンの百姓たち」(めこん社)という本の中に、まさにこれがタイ人精神なのね、と思うエピソードがある。イサーンに住むおじいちゃんが言っていたこと。 「いま収獲したばかりのたくさんの魚を長く保存するにはどうしたらいいと思う?」 塩漬けにするのか、干物にするのか、発酵させるのか?と思うでしょう。
「それは、たくさん収獲できた魚を自分一人で食べてしまうのではなく、まわりの人たちにおすそ分けすることだよ。自分が魚を捕れなかったときは、今度はまわりの人たちがわけてくれるだろう・・」
これがまさしくイサーン人の心。でも、「今度はまわりの人たちがわけてくれる」・・のか? そう不安になるのが今の日本社会。だから自分のものは将来の分まで自分で貯蓄・保管したくなる。
もうすぐ3歳になる息子がお菓子を独り占めしているのを見て、私が「このケチな性格、どこから来たのかなぁ」と言うと、「半分は日本人の血が流れてるからね〜」と夫が笑う。私は笑えない。タイ人の中で暮らしていると、自分はケチだなぁと思うことがしばしばあるのは事実。貯金がほとんどなくても、今あればお金を貸すタイ人(そして簡単に借りる・・)。計画性がないとか、お金にルーズといってしまえばそれまでだけど、将来の自分よりも、今の他人を思う気持ちがあるのもたしかなのだ。
良いことも、いやなことも、どちらもあるのが人間関係。いやな部分を我慢できずに、ひとりがいいと、人と関わることをできる限り避け、ネットを駆使して生活に必要なことをこなす人が少なからずいる日本。実際の人間関係をさけ、SNSなどネット上の人間関係の方が楽でいいと感じる人が増えつつある社会。
リズムが合わない人、苦手な人、波長が合わない人がいてもいい。それがその人のスタイルとしてそのまま受け入れ、自分とのちょうどいい距離感を見つけだし、たとえ普段は一緒に過ごさなくても、何かあったら助け合う。好き嫌いを問わずに。それが地域の人間関係なのではないか。地域が一つの家族のように。
イサーンの農村生活。普段は文句もいいます。愚痴もいいます。でも、ふと・・・たとえ私と夫が死んで、子供たちが孤児になったら・・ きっと親戚の誰かが育ててくれる。決して経済的に裕福ではなくても引き取ってくれる人がいる。施設や親戚の家をたらい回しということにはならないだろう。そんな安心感が心のどこかにある。そんな心の広さがあるのがイサーンの人たちなのだ。
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大量にとれた魚。みんなにおすそわけ。
家の前にある休憩後や。ここでご飯を食べたりだべったり





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