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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2012年10月24日11時20分掲載
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文化
【核を詠う】(71)福島の歌人たちが原発災の1年の日々を詠った短歌作品を読む① 合同歌集『あんだんて』の原発短歌から 山崎芳彦
2011年3月11日の東日本大震災・東京電力福島原発の破滅的な事故からすでに1年7ヶ月が過ぎた。福島原発の周辺地域はもとより、地震・津波に加えて原発の壊滅的な事故による核放射能の放出と拡散、汚染による被害は人々を故郷の地、生活の地から追い、生活基盤を一気に破綻の状況に陥れた。今日に至っても、苦難の日々を生きなければならない状況がつづいていることは、政府や電力企業がどのように言おうとも、「収束」などと首相が早くに宣言したことの無責任ぶりを、改めて怒りを持って思い起こされるに違いないことを、隣県の地に住み、放射能のホットスポットといわれる地域に生活しているだけでも、身に沁みて考えられる。
いま、手元に合同歌集『あんだんて』(南相馬短歌会あんだんての刊行、平成24年5月22日)がある。同会の遠藤たか子会長に、突然の電話で、同歌集を読ませて戴きたいとお願いして、快くお送りいただいた、大切な一冊である。それからすでに2ヶ月余が過ぎてしまったが、折に触れてページを繰りながら、同歌集に出詠されている会員の皆さんのご健康とさらなるご健詠を願うことしばしばであった。筆者も拙いながら詠うものの一人であり、また脱原発、この国から原発がなくなることを願い、そのためにできることをしていきたいと考えている者でもある。詠うこともそのひとつであると考えている。
同歌集の作品を、この連載のなかで読んでいきたいと、繰り返し作品を読んできた。この連載は作品について何かを述べるものではなく、「核を詠う」―原爆、原発、核にかかわる作品を記録し少しでも多くの人に読んでもらい、また後世に残したいことを目的として続けているので、筆者としてつねに悩み苦しむのは、たとえば原爆に被爆した作者の作品のなかから、記録する作品を抽くことである。直接、被爆について詠う作品でなくても、その作品に被爆した作者の生活や心象が表現として明らかになされてはいなくても、深い背景として被爆の体験がないはずはないと思うと、悩ましい。やむなく、筆者の独断でこの連載に記録する作品を決めることになり、後悔することしばしばである。
苦しい言訳をしながら、合同歌集『あんだんて』の作品を読ませていただくが、同会は会員12名、他県で避難生活をされている浪江町の会員、相馬市で暮らされている浪江町の会員の二名以外は南相馬市原町区在住で、原発事故の被災地に生き、作歌をしている。あの3・11からほぼ一年の間に詠った作品のなかから二十首、さらに「創作」として思うことをまとめた文章を加えた構成で80頁の歌集となっている。短歌作品も、「創作」の文章もそれぞれ作者の生活を映して、「この1年」のさまざまな思いがこもったものとなっていて、貴重な、作者の生涯にとって忘れえぬ作品になったことと考えながら読んだ。心残りながら、この稿に記録し得なかった作品も含めて、心打たれる作品を読むことを得た経験を、筆者の糧にして励みたいと思っている。
同歌集の「はじめに」で、会長の遠藤たか子さんは次のように記している。
「東日本大震災から一年が経ちました。私たち被災地に住むものの暮らしもだいぶ落ち着きつつあります。警戒区域であったところを除き沿岸部の津波の瓦礫などはかなり片付きました。しかし、原発事故による放射能汚染の影響はあらゆる方面に及んでおります。除染もあまり進んでいるとはいえません。また、会員の中には未だ避難中の方もいます。そして津波にさらわれた松本しげ子さんも依然として行方不明のままです。 そんな中でも、、志賀邦子さんが第64回福島県文学賞正賞を受賞され、高野美子さんも県短歌祭と小松ろまん短歌大会でW受賞をされたことは大きなよろこびでした。歌会会場の確保などなにかと苦労の多い一年でしたが、ここに『あんだんて第四集』を発行できますことを心より感謝いたします。」(平成24年5月)
3・11以後1年余を経ての文章の中にこめられている思いを、率直簡潔に述べられているが、その1年の会員一人ひとりの方々の生活や思いを考えるとき、その中身の、まことに容易ではなかったことと推察しないではいられない。やはり、作品を抽くことにはつらいものがあるが、お許しを願って抄出させていただく。(各会員の一連にはそれぞれ題がついているが、抄出歌の掲載なので、省略させていただく。)
▼原発の収束ミスを今に告ぐ安全神話さながらに夢
定命と思えば安きこころにて水平まろき臨界に佇つ
今日ひと日春の予感に誘われてガラス戸を拭くきさらぎ蒼く 3首 大部里子
▼原発の事故前つねに父訪ひし卒寿の友は仮設によこたふ
ふかき闇虫の調べに目覚むればセシウム草を食む其はいかに
帰省する子らを迎へし原ノ町駅舎とざしてななつき過ぎぬ
晩秋を黄金に染めし公孫樹並木除染はじまりいま伐られゆく
いつ会へる上京する娘を駅前で福島行きのバスに手を振る
たわいない会話の中にはひりこむベクレルセシウムミリシーベルト 6首 根本定子
▼二十年慈しみ来し青芝を線量高しと一日に剥ぎ取る
外出に長袖とマスク離すまじ夫は言へどもすでに猛暑日
原発の惨禍を知らぬ父母と姉訝しがらずや墓参のマスクを
中空を子育ての燕飛び交へば農できぬ田に翁水張る
除染とて居久根(ゐぐね)つぎつぎ消ゆる秋 空広がれど心は晴れず
ウツといふDNAを持たぬ里いま四重の惨禍の直中に在り
プロメテウスを演じし子等も三十路越ゆ如何に思ふやこの原子炉の火を 人間に「火」を与え文明をもたらしたとされるギリシャ神話の神を発表会で演じた
冴返る閏月夜の星に問ふ学校の再開安全なりやと
去年の日の停まりしままの五キロ先避難の友に春はめぐるや
今年また農できぬ田となりたるも土は匂ひて青き草生ふ 10首 高野美子
▼蕗の薹根こそぎ採る娘(こ)姿なく放射能あび悠々と生き
誰がために蝋梅香る冬銀河悲しき別れ心に沈め
またひとり子育ての為放たれ行く弟子の励し吾心痛む 3首 社内梅子
▼詠わないことにしていた原発をまた詠ってる逃れられない
このまちに住むか住まぬか方舟にまだ乗れるがに揺れつづけてる
そのうちに新手の除染でてくるさチェルノブイリに眼をそむけつつ
列島まるごと緊急時避難準備区域じゃないの 原発あれば
ばあちゃんが持ち帰った野菜みて子が怒ってる昨日も今日も
戻りたい災禍の前の起き伏しも虚(うろ)まざりおり捨てながら来つ
幾重にも枝垂れかかりし深緑の奥に炯々ひかる眼は 7首 鎌田智恵人
▼窓閉めて本音の豆まき金は内、嘘はかくれろクレームは外
戻る人戻れない人それぞれにフクシマは重く師走に入る
雲割れて出でよ神龍(シェンロン)われわれの願いはひとつもとのふるさと
春だもの相馬の苺を狩に行こう不安のレッテル一枚はがし 4首 志賀邦子
▼ふるさとに居ても原発難民のこころのままに夕日をながむ
あの日より山河はうすき衣着て人とへだたり涙をながす
二十キロの同心円に隔てられ君は何処の街をさまよう
ひと住まぬ家にも時は移ろいて飯舘村は新緑の中
深くふかく傷つき心うずくまる原発禍のなか八月すぎる
まずひとりより始めよとの声残し八月の朝君はみまかる
たわわなる柿はむなしく腐(く)え果てて放射能禍の空は透明
幼らの訪れぬ庭草ふかく夫は畑を放棄したまま
雪国は寒くはないか幼らよ家族引き裂く原発憎し
朝霧は無言のうちに春を告げ核災のまま一年すぎる
新しく美しいまち創らんと若者ら歌う心つなぎて
若者ら歌え踊れよ三月の美空のもとにいのちあふれよ 12首 高橋美加子
▼けふよりはこのアパートがわが家ぞ赤城の山をふるさとと見む
二輪草の鉢を買ひ来て窓に置く避難地太田に慣れてひと月
一日が千日のやうに避難地の太田にけふも暦ながむる
菜の花に放射能ふるわが畑の土に触れ得ず五月過ぎゆく
通る度植木もとめし駅の道さくらの郷(さと)に防護服着る
フクシマの被災者です受け付けに我は被災者原発被災者
大き家に暮らしし日々はすでに過去 救援物資の食器をあさる
とんかつソース雰したやうに放射能染むわが町よ贔屓にみても
淀みなく出る国なまり避難地太田の市民になりすましても
「この際沖縄にでも住んでみたら」あつけらかんと娘は言へり
身ひとつの清すがしさよ震災に家から田から解放されて
吹島が風をきらって福島となりフクシマとなりてしまへり
カナダへの留学を告ぐ長男はもうフクシマを見限るといふ
福島を遠く離れてしがらみを絶てど思ふはフクシマのこと 14首 鈴木美佐子
▼伸びかけのムスカリ庭に置いたままひたすら逃げる川俣へと
道端のイヌノフグリを仰ぐ先 飛び交うヘリと抜ける青空
菜の花と出逢えないまま川俣に別れを告げて一路秋田へ
原町で川俣にても秋田でも母は杉花粉に涙目
窓越しに桜前線見送った丸森辺り 帰宅途中で
ちょこまかと向日葵畑駆け巡る仔猫はセシウムなんて知らない
「生きていて、みんな良かった」乾杯の合図と共にはじける笑顔
金木犀香り取り入れ聞くはずの南西の窓は閉め切ったまま
エイプリルフールは去年の分までもネットはジョークの花咲き乱れ 9首 梅田陽子
▼あれほどに手入れせし田に目をそむくどこもかしこもアワダチ草が
収束のきざし見えねど逞ましく孫は新しき学校に馴染む
ヤドカリのような暮しに年の瀬をせかすジングルベルの歌
仮そめの住まいなれどもこの庭に華やげと植えし黄色いビオラ
望郷の想いつのれば一房の葡萄の甘さに哀しみもあり
二、三日で帰れるかもと何故(なにゆえ)になぜに思うた原発事故ぞ
しんしんと夜更けにも降るセシウムの雨に濡れずも涙に濡るる 7首 根本洋子
▼みんみんと啼けば稔が良いと云うその声ひびけど稲田なかりき
なに祝ぐや金木犀はかおれども黄金の波なき南相馬市
2L(ツーエル)に育ちしみかん色付くも四百ベクレル食うや食わずや
「フクシマの米は安全」宣言後基準値こゆるが次々と出ず
食のない戦後と異なる食の危機わが村にいま子供はいない
避難せる百五十キロ離る町ケアホームにて母は年越す
去年(こぞ)去りし知人友人二十人いつ迄めくれる吾(あ)のカレンダー
尚更に先の見えない現世(うつしよ)もあと十年は生きてみたかり
深しんと年の初めの雪が降る何ベクレルや真っ白な雪
六万二千人支え呉れたり避難時の他県の方に謝す言葉なし 一年目、県外に避難している県人
ビナードの語る原発恐ろしい国の無策はさらに怖かり *アーサー・ビナード日本在住の米国詩人
此の世をば一切皆苦とブッタ説く怒り鎮めんフクシマに生く
古代マヤ碑文に記さる最終年原発事故に子供が消えた 2012年12月21日に当たる 13首 原 芳宏
▼福島駅前のけやきに椋千羽きて鳴く汚染のまちを頻(し)き鳴く
エプロンのまま出でしとぞふるさとの友らいづくに逃れて生きる
ホールボディカウンター(内部被曝検査) 測ること知ることなれば2分間立ちてしづかな曲を聴きたり
ああわれらオートロックのひそけさに組み込まれゐむ欠損遺伝子
計画的避難区域に生れし蟇(ひき)なにゆゑか蝌蚪のままといふ秋
へび消えて蛙も減りて稲作もできぬ田それでも人は耕す
耕すもそのままでよいどちらでもよい田荒らすなと人は耕す
おろかともみゆるは知れどわが家は此処なり住めるうちは此処に住む
さはいえど子らへ 当分は帰るなといへば映像にかるく膝曲げアイボがあゆむ
汚染田を翳らひわたる群雲にいふ ありがたう助かりました
さりさりと地(つち)に積むゆき原発ゆかの日ふりたるもののごと降る 11首 遠藤たか子
「あんだんて」会員の、それぞれ個性と特徴が生きている作品を読みながら、詠うこと、それを読むことを結ぶ短歌という表現の形式の持つ特徴について、改めて考えている。「詠う」「訴える」、作品として成立し、人に読まれるとき、「詠む人」と「読む人」がどのように関わるのか。たとえば、原発事故にかかわる短歌作品を読むとき、その作品につきうごかされるもの、考えさせられるもの、そしてそれによって自分の何かが変ることがあるだろう。この歌集に書かれている「創作」の文章も含めて、詠う人の集まりがあり、作品がまとめられ、会外の人にも読まれる、後世の人に「原発事故」の被災の中で生きる人々の思いを、実態を伝え遺す、そのことの意味を、詠うものの一人である筆者は考えている。合同歌集『あんだんて』は貴重なのである。
次回も、福島の歌人の作品を読みたいと考えている。
(つづく)
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