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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年01月19日00時18分掲載
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文化
【核を詠う】(86)吉川宏志歌集『燕麦』から原発にかかわる作品を読む 「原爆と原発は違うと言い聞かせ言い聞かせきてしかし似てゆく」 山崎芳彦
前回までかなりの回数を重ねて、福島の詠う人々の短歌作品を読んできた。原発にかかわる歌を抄出して読んだのだが、福島原発が壊滅的な事故がひきおこしたことによる災害のもたらす人々への苦難、その実態は何とも言い難く深刻であることを改めて思い知らされた。筆者としては、ひたすら読み、思い、記録することに努めたつもりだが、原発が本質的に抜き難く持つ核の反人間性を、原爆短歌を読み続けたときと同じように見ないではいられない。
とりわけ核の放射能による人間、いのちあるものに対する影響については、意図的に殺人兵器として使われた原爆と、原発を、その現れ方について同一視するものではないが、多くの科学者、放射能専門研究者、医学者の長期にわたる研究、あるいは臨床医療による診察と研究、チェルノブイリの原発事故による国境を越えての極めて広範囲にわたる、さまざまなレベルや経路を通じての被曝、さらに現存する原発死説近傍地の植物についての長期的系統的な観察と研究などについての少なくない文献、また井伏鱒二の『黒い雨』、若松丈太郎氏を初めとする詩人の作品群、短歌界でも福島原発事故以前から各地の原発作業員の被曝による死をも含む疾病の実態が発表されてきたことを考えるだけでも深刻なものであると、筆者は考えている。この連載を続けている中で、少なくはない研究書や論文、文献を、浅くではあるが読み、短歌作品についてはかなり膨大な作品を読んでもきた。理解の程度はともかく、まっとうに読んだつもりである。
そして、この間読み続けてきた福島の歌人たちの作品のなかに、際だつのは核放射能に対する不安であり、現在と将来にわたって人が生きるということに何をもたらしているのか、もたらすのかを、その日常の生活と感性から、どれ程数字が知らされ、言葉で知らされても拭いきれない不安と不信があり続けることを痛感した。
今回読むのは歌人・吉川宏志氏の第六歌集『燕麦』(2012年8月刊、砂子屋書房)のうち、原発に自らかかわる意思を持ち、福島県をはじめ東北の地に足を運び現地を見て歩き、また原発に反対するでも行動にも参加しながら、その中からにじみ出る思いを短歌表現した作品の一部である。筆者の連載の中で近くは84回目のなかで氏の評論の一部を取り上げさせていただいたが、今回は氏の最新歌集『燕麦』の「Ⅲ(2,011~2012)」に福島第一原発の事故にかかわる歌が収録されているので、そのなかの作品を読ませていただく。
同歌集の「あとがき」で、吉川氏は「大学生(筆者注・京都大学卒、宮崎県出身、1969年生)の頃、原発について関心をもって、新聞投稿などを少しだけしたことがある。しかしその後は、すっかり忘れていたようになっていた。今まで何もしてこなかったことが情けなく、恥じるしかない。しかし、いまの自分にできるだけのことをやって、その中から表現を生み出していきたいと思う。ささやかであっても、言葉で現実に向き合っていくほかないのである。」と書いているが、今インターネットのブログで、たとえば岩井謙一の原発擁護の言説や、その作品に対してきびしい論難を浴びせて注目されている。さまざまな媒体で評論、作品発表をしている歌人である。氏については昨年の本連載のなかでもその評論について触れてきたが、別の機会にも論じたい。氏の短歌作品をまとまったかたちでこの連載で読むのは初めての事になる。
◇吉川宏志歌集『燕麦』のⅢ(2011~2012)から◇
「3月十一日以後の断章」
(その1) 海水注入聞きて夜が来る 十時間過ぎれば明けるだろう夜が来る
高木仁三郎読み居し日々は遠くなりぬけっきょくは読むだけだったのだ
仕事ゆえ親のいるゆえ逃げられぬとメールの来たり返せずにいる
黒竜江(アムール)に飛び立ちかむ白鳥を思えり放射線をよぎりて
(その2) (業界と言うもの) 義捐金も各社横ならびにするという皆が賛成したると言えり
ほうれん草はだめだが白菜はよいとあり考えるななにもかんがえるな
冷静に、という名のもとに素直なるおびえの声は掻き消されゆく
起こるかもと思っていたが起こらぬと皆が言うから あなたもでしたか
ゆるやかに死ぬというのはベニテングタケになることですか そうだよ
わたしとはどこに宿るか 黒い昼が来ればはじめも終わりも無し
(その3) 警告は正しかりしと白き帯巻きて売らるる亡き人の書は
原爆と原発は違うと言い聞かせ言い聞かせきてしかし似てゆく
あなたは安全と思っていましたかと言う妻あらむ山のはざまに
日常に戻らぬままの日常にえごの花咲き白く散りたり
FuKuiだったかもしれない まだそこに直立をする燃料の束
「頚木」
原子炉の辺(へ)に亡くなりし人の名はあらず過労のゆえと書くのみ
安全だったか安全でなかったか五年後わかると 時間は頚木(くびき)
すでに死の決まりし人のあるならむ蚕のごとく我らは黙す
北山の重なりて青きその奥に炉心のあるを忘れきたりぬ
くちびるをあやつるごとき声ありて原発をなお続けむとする
エネルギー喪いて国の死にゆくを個人の死より怖れ来たりつ
まぎれなく人の為ししことシーベルトもベクレルも人名にして
子をもたざりし理由を葬の日に聞きしことあり広島の人なりき
「何も見えない」
七月三十一日 長崎出張) いくどもいくども十一時二分をくりかえす時計あり地下の原爆資料室
十字架を失いしイエスは寝かせあり水黽(あめんぼ)のようなかたちとなりて
集まりし国語教師の誰も知らず竹山広は教科書に無く
八月六日ののちの二日間それに似た時間を我ら生き続けおり
よく見れば「平和利用」の語は怖し平和を利用することだった
(八月十日) 屋根に敷く青きシートを押さえいる砂嚢が見えて福島に入(い)る
夜に来る余震多きを言われつつ宿泊カードに京都市と書く
観光と言っていいのか 闇を見に来たりし我は問われていたり
何もなかったような街なり信号の青またたきて人走らせつ
おくのほそ道そのひとところ放射線強く射すとぞ鯖野を過ぎつ
原子力は国益と繰りかえすのみ組織は老いて老人(おいびと)が言う
天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
原子炉を冷やしている人もここに来(く)と陣場町の暗き灯のなかに聞く
(八月十一日) 濃度深き町に住みいる人びとに混じりて朝の切符を買いぬ
海は皆つながってるんだどと 売店の老女は言えり我はうなずく
とめどなく東京を怨む声を聞く干し魚のふくろを手に取りながら
こだなことなったらわしらを差別して・・・・・・東京から来たのか 否と逃れつ
原子炉ははるかにあれど大海の青きひかりに何も見えない
「誰か」
顔を淡く消されていたり原子炉に働きし人はテレビに語る
下請けの下請けの下請けの下請けの下請け 食人に似て
(二十キロの鉛の板を運びしとボカシのなかに泣いている人) 貧しきを原子炉に働かせているさまを貧しからねばテレビに見たり
誰か処理をせねばならぬことそれは分かる私でもあなたでもない誰か
数値へ数値へ議論は入り行く違うのだ数値のために生きるのではない
「寒の酒」
黒い雨 その黒さえも見えざればあまたの人の打たれてゆきし
死亡率わずかに上がるのみと言う死にて数字となりゆく命
あおあおと水あるごとく作りたる模型をもはや映さぬテレビ
原爆ドームに似ておれどそこに近づけぬものが映れり雪かすめ飛ぶ
おおかみを祀る神社があると聞く原子炉の辺の遺志の狼
原発に罪あらずと言う老いびとに若きら従うしたがうべきや
病む人のあらわるる頃まさかこんなことになるとは、などと言うのか
「縦列」
春空はゆるくひろがりデモのまえ旗竿に旗を結わう人あり
眼をとじてひとりひとりが闇に居る黙禱のなか咳(しわぶ)き響く
(長谷川健一氏) 餓死したる乳牛を豚が食いたりと避難者の一人は壇に語りぬ
捨てられてゆく牛乳がただ白きひかりとなりて壁に映さる
結婚の差別がすでに起きいるを最後に言いて農の人去る
都市の人が声をあげてほしい その言葉に救われており都市の人われは
<圏外>の人は語るなという論に屈しおりしが言葉湧き来る
段ボール切りて<廃炉>と書きたりき寒風のなか羽撃(はたた)きやま ず
手のなかでざっくりと立つ段ボール 言葉をもちて我は歩めり
あれはみな私服警官(しふく)ですよ、と言う声す蕨(わらび)のように橋に立つ人
四列に並んでください 四列にならべば左右おばあさんなり
原発より子どもが大事、という声に声合わせつつむすめを思う
声を出すことにしだいに慣れてゆき腹をのぼりて声が出てくる
<反対>という語はとても言いやすい曇天のしたア音がひびく
(メールありて) 薄き陽のなか歩みゆく大群に江戸雪さんも混じりいるという
デモ隊は傘をもたざり春雨の渡辺橋をあゆみゆきたり
警官が短く切ってゆく列の我はいつしか先頭に立つ
チャップリンにたしかこんな場面があったなあ いつのまにやら列を曳きゆく
おばあさんゆっくり歩くデモ隊は信号の赤をくぐりてゆきぬ
銀窓はむすうの眼となり巨いなる電力会社のビルが立ちたり
挑発にのらないでください デモ前に指示のありしが挑発あらず
デモ隊に停められている車より手が出たり煙草の灰をこぼせり
大阪に福島というところありデモは過ぎゆく居酒屋の前
目の前のデモを映さぬテレビ局ガラスをあおく閉ざしていたり
数千のなかの一人とおもえども 鳥群(とりむれ)に過ぎぬとおもえども
(われわれから権力への) 死の贈与しかシステムを変えられず ボードリヤール言いき死の贈与とは
じわじわとデモの後をつき来たる装甲車の横とおりて帰る
危うさをしかも隠すか夕雲の濃き色のなか隠さうべしや
筆者の住んでいる茨城県の取手市は、放射能のホットスポットといわれるが、このほど、2012年度の小学一年生・中学一年生対象の心電図検査の結果、要精密検査者と診断された児童生徒が2011年度の2.6倍になり、また心臓に何らかの既往症が認められた児童生徒も2010年度9人から2011年度21人、2012年度24人と急増したことが明らかになり、市民団体が放射能被曝との関連を憂慮し、市当局をはじめ関係機関に対応策を求める事態となっている。 吉川氏が「福島原発事故について、現在非常に言いづらく、論じにくいのは、低線量被曝の問題が存在しているからである。」ということを角川の『短歌年鑑 平成24年版』に書いた評論「言葉と原発」の中で言っていることを、この連載の84回のなかで筆者は触れたが、氏の「なにが起きるのか分からないと言う不安を、私たちは直視すべきなのだ。」「そんな不確実性に、原発の恐ろしさはそんざいするのである。」ということばを、改めて筆者は考えている。 吉川氏の歌集「燕麦」の短歌を読んだが、次回も原発にかかわる作品を読んでいく。
(つづく)
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