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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年03月10日13時47分掲載
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コラム
あとがき不要論 村上良太
本にはたいがいあとがきが添えてある。あとがきにはたとえば翻訳書の場合には翻訳者による解説が添えてある。また翻訳者以外にも、評論家などが解説を加えている。あとがき不要論などとタイトルを付したが、僕自身もあとがきをよく読むし、あとがきから読み始めることも少なくない。それでも、あとがきには必ず弊害がある。
最近僕はカフカの「城」(新潮文庫)をブックオフで中古本で買ったのだが、そこには翻訳者でドイツ文学者の前田敬作氏によるあとがきが付してある。そのあとがきを読んでいるうちに、どこか違うな・・・という印象を持ってしまった。高名なドイツ文学者のあとがきに文句をつけるのは傲慢なのだろうか。
「城」を今買ったのは本の裏表紙に「職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す。」と書かれていたからだ。これを読んで「えっ、そうだったのか」と驚いてしまった。以前、「城」を買って読んだときにはそんな物語だとは思わなかったからだ。
「城」のあとがきには前田氏によるカフカ作「変身」についての評論もつけられていた。そこでも僕は違和感を感じざるを得なかった。それはこんな記述である。少し長くなるが引用したい。
「有能なセールスマンとして一家の経済的支柱であったグレーゴル・ザムザの善良な脳裡にある日ふと、「家族のためでなかったら、こんなことは、もういっさいおしまいにしたい」という想念がひらめいたとき、たんにそれだけで、彼は褐色の虫に変身してしまたのである。この想念は、「だれにでもよくあるやつ」で、かくべつ異常な想念ではない。しかし、それは、自己の本来性への自覚を意味する。グレーゴルは、家庭の善良な息子であり、社会の模範的な市民であったが、このことは、彼の存在が家族のための、社会のための存在であり、自己自身のための存在でなかったということ、「自己自身に関係するところの関係」であるべき彼の自己が自己以外のものに関係するところの関係に堕してしまっていたということ、自己の本来性から「世間の人」の世界へ頽落してしまっていたということにほかならない。自己の本来性を放棄することで、「世界」の模範的な市民でありえていたグレーゴルは、この頽落に気づいたのだ。だが、現代社会の律法は、人間が自己自身の本来性を保持することをゆるさない。現代社会は、その経済的機構の不可避的な帰結として、人間を「自己疎外」の状態におとしいれた。人間を社会という巨大なメカニズムのなかのたんにひとつの歯車たらしめることによって、人間を徹底的に機能化し、抽象化し、非人間化してしまった。」
カフカの「変身」は会社員の男がある夜、何やら不安な夢を見て、朝起きてみると巨大な「毒虫」(害虫)に変身してしまう話である。カフカは主人公グレーゴルの変身後の心理を追いかけているのだが、虫になっても依然として人間だった頃と同様の心理が継続していることがわかる。しかし、虫になったがゆえに声帯の関係もあってだろうが、人間の言語が話せなくなってしまって家族からも共同体からも意思疎通のできない、邪魔者になってしまう。しかし、「変身」の面白さは虫になるという非常事態に陥ってもパニックに陥らず、グレーゴルが人間として生きているところにあると思う。
カフカはグレーゴルがなぜ虫になってしまったか、ということについては明確な説明をしていない。もしそんな説明があったらSF小説になってしまっただろう。あるいは説教くさい説話になってしまって理に落ちてしまうから「不条理文学」とは言えなくなるだろう。理由がわからないからこそ、人間はその理由を考え続けざるを得ないのだ。正解がなくても「なぜだろう」と考え続ける営みの中に文学という行為も伴ってくるのだと思う。
前田氏はあとがきで「家族のためでなかったら、こんなことは、もういっさいおしまいにしたい」とグレーゴルがひそかに思ったことが虫に変身する引き金になったと書いているが、それはグレーゴルがそう思った心理の描写であっても、だから虫になったとは説明されているわけではない。もし、そうだとしたら、なぜグレーゴルだけが虫になってしまったのだろうか。
たとえば「龍の子太郎」という童話が日本にあるが、それは空腹に耐えかねて母親が1匹の魚をこっそり食べたがゆえに、共同体の掟を破ったことにより、体を龍に変えられてしまう話である。だが、「変身」にもそのような「変化する理由」がなければならないのだろうか。
先述のあとがきの中で、「自己の本来性を放棄することで、「世界」の模範的な市民でありえていたグレーゴルは、この頽落に気づいたのだ。」というくだりはハイデッガーの思想にほかならないだろう。人間疎外、機構の歯車・・・これらははっきりいってクリシエでもあり、強引だと言われても仕方あるまい。1つの解釈の仕方としてはありえても(優れた解釈ではあっても)、「こうだ」と断定するのは違っていると思えるし、そんな風に理屈で説明したら文学として面白さが半減してしまう。そんな風に解釈に1つだけ正解があると考えるのは権威主義的な発想に思える。創作には無数の選択肢があるし、解釈にもまた無数の解釈があり得る。だから、その中の1つをあとがきに据えることで多くの読者が自由な読み方を阻害されるとしたら、あるいは感想を修正するとしたら、それは残念なことになってしまうだろう。
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