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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年09月10日06時04分掲載
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ロジェ・グルニエ著「ユリシーズの涙」
パリを歩いていると、犬を連れた人々が多いことを感じる。日本でも犬を連れて歩いている人が多いが、パリも多い。野良犬はいない。10年前に比べたら、歩道に落ちている犬の糞もまったく見かけなくなった。犬もさまざま。日本であまりみかけないタイプの色や形の犬も少なくない。
犬好きにとって愛読できる一冊がロジェ・グルニエ著「ユリシーズの涙」だ。僕は日本で翻訳書で読んでいたが、当地の書店の店頭で売られていたのを見て原書でも読むことにした。
表題はホメロスの古典「オデュッセイア」に登場する知将オデュッセウス(英語読みでユリシーズ)と彼の飼い犬、アルゴスのエピソードに基づく。オデュッセウスは海外遠征に出て活躍したのだが、海の神ポセイドンの恨みを買ったため、長い間(10年以上)ギリシア領の郷里の島イタケーに帰還できなかった。その間、イタケーでは妻に言い寄る人間が絶えなかった。愛犬アルゴスは顧みられず、老いて衰え、門前の家畜の肥溜めの上にシラミに食われながら、力なく横たわっている。そこにある日、主が帰ってきた。オデュッセウスは妻に言い寄る人間たちを成敗する為に、変装している。しかし、犬のアルゴスだけは主の姿に気づき、尾を振るのである。しかし、アルゴスにはもう主に近寄る力もない。その姿を見てオデュッセウスは脇を向いて涙を拭うのである。これが表題の「ユリシーズの涙」だ。
グルニエは愛犬家で、ユリシーズという名前の犬を飼っていた。犬は人間を裏切らない。愛犬家は人間嫌いなのだろうか?いや必ずしもそうではない、とグルニエは筆を進めている。グルニエは作家であると同時にガリマール社の編集委員を勤めていた。多くの作家と交友があり、また膨大な作品に知悉していた。だからこの犬にまつわるエッセイ集についても膨大な文章の海の中から犬に関する記述を取り上げ、人間と犬について思索を巡らせる。1つ1つのエッセイが奥深い内容ながらも短く、読みやすいのもありがたい。
先ほどの人間嫌いかどうか、という点だが、僕個人は最近の犬好きの風潮にどこか人間嫌いの風を感じることがある。それを的確に描いた本があった。1つの話を英語で55語以内で書いたアメリカの超短小説集である。そのアンソロジーの中に犬と人間をテーマにした超短編があった。
愛犬家が飼い犬に人間の言葉を教え込む。やがて犬は人語で飼い主と話ができるようになる。彼らはやがて哲学の話まで交わすようになった。ところが、ある日、犬が人間との間の序列を廃止してくれ、と頼むと飼い主はそれはできない、と拒む。以後、犬は人語を話すことがなくなり、ただ吠えるようになる・・。
犬が人間の言葉を話したら、今のような穏やかな関係を結ぶことは難しくなるかもしれない。今のよい関係は犬と人間の序列が前提にあり、犬が飼い主を批判したり、待遇改善を要求したりしないことが前提になっている。逆に言えば犬は人間の言葉を多少理解しても待遇改善を要求したり、飼い主を批判したりしない。犬が貴重なのはそこだと思える。犬は飼い主に食べすぎはよくない、とか、酒を控えろ、とか、宿題はやったのか、などと言わない。
犬が人間にあれこれ要求したりすると考えること自体が犬を人間になぞらえていることに過ぎないかもしれない。犬が人語を話すようになったとしても、人間と同じ欲望を持つかどうかわからない。たとえばグルニエは犬が香水のような香りより、汚物の匂いに関心を持っていることを書いている。チョコレートなども食べたがらない。犬が人間と違うからこそ人間は犬に関心を持つ。
本書の中で、グルニエは近代哲学の父、デカルトを批判することを忘れてはいない。デカルトは「方法序説」の中で動物には魂がなく、単なる機械に過ぎないと説を進めている。デカルトにとって、疑えないものは「モノを考える(思う)」自分自身だけである。オウムが人間の言葉を発音するのは機械が人間の声を記録しているのと同じ原理であり、自発的にモノを考えない動物は機械に過ぎないと考えを進めた。動物は機械仕掛けの人形のようなものだというのだ。しかし、グルニエは欧州でもこのようなデカルトの考え方を批判する人間が多かったことも書いている。
もしデカルトが愛犬家だったらどうだったろうか。もしデカルトが犬を〜心ならずも〜飼うはめになる物語があったら・・・グルニエの本を読んでいたらそんな物語を読んでみたくなった。最初から犬好きの人間が主人公なら面白くない。犬を警戒している人間がやむをえず犬とどう関係を結ぶか。近代の懐疑哲学者デカルトと犬が繰り広げる愛と葛藤の物語である。これはジャック・ニコルソンが〜最初は嫌々ながら〜犬の世話をする羽目になり、やがて人間嫌いから変化する映画「恋愛小説家」のテーマでもある。
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スーパーの前で主を待つシェパード。飼い主は年配の女性だった。
多数の犬を連れたパリの愛犬家。
ロジェ・グルニエ著「ユリシーズの涙」(ガリマール社)





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