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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2016年04月06日23時46分掲載
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社会
大学とファシズム 滝川事件の波紋 「戦前の学問弾圧プロセスの原型」
昭和8年に起きた滝川事件は戦前戦中の学問弾圧の象徴的事件として知られています。京都大学法学部の滝川幸辰(ゆきとき)教授のテキスト「刑法講義」と「刑法読本」が反国家主義的と言うことで発禁処分とされ、さらに当時の文部大臣だった鳩山一郎氏は滝川教授の罷免を京都大学に要求しました。しかし、京都大学の教授会が反対し、結局滝川教授は休職処分に落ち着きます。
このとき、京大法学部の全教授が国に抗議して辞表を提出、さらに助教授、講師、助手もならい、結局39人が辞表を提出しました。しかし、中公文庫「ファシズムへの道」(大内力著)によると、最終的に辞職が受理されたのは先鋭的な国家と対峙していた数人の教授で、その他の教授らは大学にとどまることになりました。
「文部省は収拾のためさまざまな工作を行ったが、7月はじめ、小西にかわって松井元興が総長になったあと、佐々木惣一、末川博、宮本秀雄ら強硬派と目される6教授の辞表を受理し、他はさし戻すという方法で教授会のきりくずしがおこなわれた」(「ファシズムへの道」)
この時、京大以外の大学人や京大でも法学部以外の教授らは一緒に戦わなかったと大内力氏は批判しています。経済学者の大内力氏は日本の知識人は庶民と切り離されているから、弱い存在であると指摘しています。
「こうして京大法学部は、「玉砕組」と「瓦全組」に二分され、大学の完全な敗北のうちにこの事件は終わったのであった」
滝川幸辰氏が戦後京大に復帰したのちに、刑法学者の中山研一氏もその弟子のひとりとなっています。滝川事件のあと、京大ではファシズムに加担する学者が増えたのか、中山教授の記載によると、たとえば刑法学者の佐伯千仭教授も戦前に国家主義に加担した刑法の解説書を出していたとされます。
■ 中山研一 「滝川事件の後遺症」(中山研一の法学ブログより)
「最近、松尾尊兊氏の著書『滝川事件』(2005年、岩波現代文庫)を読む機会があり、いろいろと考えさせられました。それは、滝川事件に至るまでの経過、滝川事件の展開、および滝川事件以後の問題までを忠実にフォローしたもので、すでにこれまでに明らかにされているところも多いとはいえ、新しく発掘された歴史的な資料も含まれていて、興味深いものがあります。
私自身の関心としては、滝川事件以後の戦後当初の京大法学部再建問題のなかで、とくに刑法の佐伯教授の教職追放の経過がなかり詳しく叙述されているところに興味を引かれました。教授の教職追放は、GHQの方針にもとづく教職・公職追放の一環として、京大法学部内に設けられた教員資格審査委員会が決定したものですが、著者はその結論に次のような疑問を呈しています。「たしかに佐伯は『大東亜戦争に相応する雄大な日本法学の建設』をうたい、『刑法における日本的なるものの自覚』および『刑事法より見たる日本的伝統』を執筆しており、国家主義的傾向は強いが『超』とまで行くか疑問である」というものです。なお、当の佐伯教授も当時「判定理由書」に長文の反駁文を書かれていたことも明らかになっています。」
中山教授はこの件について、再びブログで取り上げています。
■ 中山研一 「佐伯千仭著『刑法総論』(昭和19年)」
「佐伯先生の刑法の体系書としては、『刑法講義(総論)』(昭和43年初版、昭和49年改訂版、有斐閣)が一般に普及していて、私自身もこの書物で勉強させて頂きました。 しかし、佐伯先生は、すでに戦前末期に『刑法総論』(昭和19年、弘文堂書房)という刑法の体系書(400頁を越える大著)を公刊されていたのです。それは、戦争中、しかも敗戦の一年前の時期であり、よく出版できたのだと思われます。 ところが、この著書には、曰く因縁があって、戦後もほとんど出まわらず、「幻の書」ともいわれていました。その最大の理由は、実はこの著書の一部が戦後の教職員適格審査委員会で問題となり、その結果として、佐伯先生は京都大学教授の地位を追われることになったという点にあります。その詳しい経緯は一種のタブーとなり、以後この著書にも封印が付せられた感があったのです。」
昭和8年の滝川事件のあと、京大に限らず、日本全国で学問の自由は萎縮し、研究者たちは勇気ある発言を行わなくなっていったと大内力著「ファシズムへの道」には書かれています。滝川教授はとくにマルクス主義者でもなく、当時の内務省が滝川氏の著書を「良書」として部下に進めていたというエピソードがあるくらいで(大内力)、そうした学者が弾圧されたインパクトは相当に大きかったようです。以後、国家主義に便乗する研究者が増えていったというのです。
「この事件はもともとうす暗い陰謀に覆われていた。蓑田(蓑田胸喜=右翼の思想家)がとくに滝川にかみついたのは、かつて京大で蓑田が講演した時、学生にこっぴどくやっつけられたのを怨みとしたためだという。だが、いずれにしても、こののち、天皇機関説問題から矢内原事件・河合事件と展開していくこの時代の学問圧迫の過程は、判で押したように、蓑田らが攻撃をはじめ、貴衆両院の一部の議員がそれをとりあげ、政府が大学に圧力をかけるという手順をとっている。そしてこの蓑田らの裏にも、貴衆両院の議員の裏にも、軍部の手が動いていたといわれている。いずれにせよ、この事件は、その後の学問弾圧の過程の、いわば原型をなしているのであり。それがすべて軍=右翼の手で演出されていたところに、その重大性がある」(「ファシズムへの道」)
ちなみに渦中の滝川教授は休職処分となったのちに、退官しています。以後、弁護士登録を行い、弁護士として生活を始めました。しかし、敗戦の年に論壇に復帰し、翌1946年に京都大学に復職を果たしています。
※蓑田胸喜(1894-1946)右翼・反共の思想家 ウィキペディアによると著書に以下のようなものがあります。 『美濃部「機関説」の源流一木博士の反国体思想』 しきしまのみち会原理日本社、1935年 『国防・教育・財政一元論』 国防思想普及会、1936年 『津田左右吉氏の大逆思想』1939年 『大川周明氏の学的良心に愬ふ 「日本二千六百年史」に就て』 原理日本社、1940年 『国家と大学 東京帝大法学部に対する公開状』 原理日本社、1941年 「貴族院議員であった美濃部達吉が辞職させられた、天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、滝川幸辰、大内兵衛らの追放、津田左右吉の古代史著作発禁事件も、蓑田の批判論文がそもそものきっかけである。」(ウィキペディア) 1946年、敗戦の翌年、蓑田氏は自殺しています。
※佐伯千仭(ちひろ、1907~2006)刑法学者 滝川事件の時(1933年)は京大の助教授だったが、同僚とともに辞職し、立命館大学に移籍しています。しかし、翌年の1934年には京都大学に復職し、1941年に教授に昇格しました。しかし、戦時中に出した刑法のテキストの内容が戦後問われ、京都大学から追放されています(ウィキペディアによる)。
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