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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2021年01月01日10時05分掲載
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中南米
ラテンアメリカ社会科学の失楽園 マルコス・ロイトマン・ローゼンマン/ 訳:山端伸英
以下に1973年、クーデタを機に亡命し、スペインでラテンアメリカの民主化を追っている政治学者マルコス・ロイトマン・ローゼンマンのメキシコの新聞「ラ・ホルナダ」2020年2月23日に寄稿したエッセイを翻訳した。ラテンアメリカの日常でこれを見ても、その晦渋さはぬぐえない。またサパティスタ評価も、現在のメキシコの状況との齟齬を持っている。ロイトマンの評価は、98年ころからのサパティスタ指導者の「国民国家」への傾斜についてフォローされていない。それでいながら政治学次元での従属論以降のスタンスを切り開こうとする姿勢をやはり評価せざるを得ない。なお2020年12月28日に改めて彼は「ラテンアメリカ社会科学の過去と未来」というコラムを発表している。それについても翻訳する予定でいる。
ラテンアメリカ社会科学の失楽園 マルコス・ロイトマン・ローゼンマン/ 訳:山端伸英 “El paraíso perdido de las ciencias sociales latinoamericanas” por Marcos Roitman Rosenmann La Jornada, México,
わたくしたちは南北問題の基軸である「南」を喪失してしまった。現在の分析の多くは、従属理論という過去に向かって、わたくしたちの現実を考えるためには役に立たないのだと決裂を求めている。議論としては「ラテンアメリカ社会科学という楽園の放棄」ということになる。わたくしたちの過失は、「従属理論」を育てることを放棄したことにある。従属理論の放棄は、繰り返すが、その諸基礎条件のマルクス主義的性格に関する強い否定、またラテンアメリカへのこだわりの廃棄、そしてイデオロギー的な反革命を想定させた。 確かに、従属理論は、すべての従属理論諸派に言えるのだが、ラテンアメリカにおける社会構造と権力への最後の統括的普遍的展望であった。同時に、実際のところ、一つの反資本主義的選択肢を、社会科学を取り込みながら政治活動と連携させることを実現した。一九六九年に、ルイ・マウロ・マリー二は、SIGLO XXI(21世紀出版)から出版されたエッセイ:「従属と革命」に示唆的なタイトルを与え、他方、一九七二年、テオトニオ・ドス・サントスは、彼の著作にさらに独特の表題を付けている:「社会主義かファシズムか:従属の新たな特質とラテンアメリカ的ジレンマ」。これらはほとんど、一九七三年九月にチリのサルバドール・アジェンデ人民政府を転覆させたクーデタの予感とも見える。従属理論はその後、代行者と言えるものを持っていない。
ネオリベラリズム版軍事独裁、弾圧、社会科学系学部の閉鎖といった現実がラテンアメリカ批判思想の彷徨を助長した。「冷戦」のさなかに用意されたクーデタ以降、左翼知識人の一部は、回復のすべを知ることがなかった。その後の新たな世代は、流行や、プログラム化された陳腐さを伴う「ジャンク」思考にふさわしい使い捨て理論に引きずり回されてきた。従属論研究の放棄は、ノスタルジーに姿を変えた空白を残した。その空白はいまだ埋められていない。その場所には、ひとつの分断化した知が残っている。何人かにとっては、それは思想のひとつの危機として扱われ、他の者にとっては、変革の欠落として扱われている。それにもかかわらず、それは、ブルジョア的、閉鎖的、疎外的な社会科学の場合がそうであるように、わたくしたちの社会科学を生み出す際の強迫観念化した複数のオプションの融合なのである。このダイナミズムにおいて、主だった大国間で作られた西欧的知の諸カテゴリーから発する不正なキラメキを持ったナニモノをも研究するべきではない。それがヨーロッパであろうが米国であろうが。アカデミズムの何らかの墓穴の中でひとつのクボミを占めるに至ったとしてもそれは無意味というものだ。すべての「Post」は歓迎される。あたかもマルクス思想、言語、社会調査の技術、統計学、理論などが文化的理性の一部ではなかったか、あるいは文化的西欧的理性に帰せられたかのように、それらの「ポスト」から、良かれ悪かれ、わたくしたちは世界について考え、世界の変革を求めている。知を解放するための唯一の選択肢として、自分自身を自国語に定着させることはナンセンスというものだ。そのベースは、ラテンアメリカの社会科学の発展における過去の牧歌的なバージョンに身を隠すことを容易にするノスタルジーだろう。西欧の諸カテゴリーから世界について考えることから解放されて、知と知識とが急き立ててあふれ出ていたところの物語であろう。その後、カオスと闇がやって来た。それが災禍の始まりと言える。その時点から、すべてがうまく行かなくなっていった。果樹園であると約束されていたものは、ひとつの荒地に終わってしまった。社会科学の危機に話が及ぶまでに、ラテンアメリカの批判的思考の統一が失われていくに従って、そのオアシスまで枯れてしまいつつある砂漠になってしまった。
サパティスタの提起したものはメキシコの歴史に根を持つに至っていないのだろうか? サパティスタのラテンアメリカ解放思想にもたらしたものは、その国内植民地主義、尊厳ある憤り、サパティスタ集団によるカラコレス共同生活圏、アナログ資本主義からデジタル資本主義への諸変革解釈できる言語などを経過する経験からの総括の帰結なのである。それは、民主主義、闘争や抵抗の形態を再考する必要性を理論的議論の机上に乗せる可能性を持っている。尊厳、社会正義、権力のような諸概念への議論を開始できるだろう。その1994年の宣言文は抱合性を持っている。それは理想論でも先住民のヴィジョンでもない。ラカンドンのアントニオ老人と雄弁な黄金虫ドゥリートの物語は, 人種差別、困窮、集団的記憶、政治活動の倫理的感覚を説明する上で生き生きとしている。サパティスタの提起したものは孤立したものではない。彼らの基本的主張は、ベネズエラ、ボリビアまたエクアドルの立憲プロセスを再考するのに参照された。「より良い生活空間」、Sumak Kawsay (ケチャ語、El Buen vivir ) 、自然権あるいはマルチ・エスニック国家と多元的民族国家の連結、これらは国内植民地主義の決裂の要素である。その思想は、現代政治学の発展への際立った貢献として承認されるべきだ。これは、去勢されたヴィジョンや方向を失ったノスタルジーを破るひとつの手段だ。すべての過去が良かったわけではない。今日、ラテンアメリカ思想は、沸騰点にある。創造し提起する、同様に探求し、それ自身を締め付け制止する諸ビジョンを破壊する。族長的資本主義への開かれた批判の文脈で、女性運動の拡大としてのチリやコロンビアの抗議運動を見るまでもないだろう。楽園は、決して存在しなかったのだ。同時に、ラテンアメリカ社会思想の失われたエデンの探求から退く必要もないのだ。
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