都立高等学校の入学者選抜における男女別定員制の撤廃を求める声が高まっている。現行制は性差別に当たるという主張だ。だが私は、この主張に危惧を抱いている。強い女性たちの能力主義にもとづいた形式的平等を意図するものと感じるからだ。両性の教育機会の平等を議論するには、この問題の背景にある日本社会の男女の役割分担観や貧富の格差、学力検査で得る点数とは何かなど幅広い視点から、日本国憲法が掲げる実質的平等の実現をめざす必要があるのではないだろうか。やや長文だが、問題点を歴史的にさかのぼりながら、整理していきたい。
2021年3月頃から、都立高校で男女別定員が設けられていることが又しても問題とされ始めた。後述する「都立高校男女別定員検討委員会」が1989年11月に設置された前後にも、男女合同定員制の導入に付き議論されたことがあった(小野寺みさき「都立高等学校における男女別入学定員の変遷」早稲田大学教育・総合科学学術院学術研究人文科学・社会科学編第62号〈2014年3月〉63頁)。 2021年6月初旬には、都立高教職員等から成る「東京ジェンダー平等研究会」(以下、「研究会」と略)が廃止を求める署名活動を開始した。同月下旬、呼応するように「都立高校入試のジェンダー平等を求める弁護士の会」(以下、「弁護士の会」と略)が、教育を受ける権利(憲法26条1項)及び教育の機会均等(‘47教育基本法4条1項)に反する等とした「都立高校の男女別定員制度及び男女別合否判定の撤廃を求める意見書」(2021年6月28日。以下、「意見書」と略)を発表した。この弁護士の会は、2018年に明らかになった10大学・医学部の入試における不正問題─―最初に発覚した東京医科大学では、女子受験生及び3浪人以上の男子受験生に対し一律に減点していた─―に際し組織された「医学部入試における女性差別対策弁護団」有志が構成員である。 二つの会のように、今般男女別定員制を性差別に当たるとする撤廃論は、形式的(機会の)平等を意図するもので、しかも能力主義をその基盤とするように感ずる。日本国憲法14条1項及び24条2項が掲げる平等は、実質的(結果の)・相対的平等である。現代憲法は、社会権保障によって個々人の精神的・身体的差異、家庭や経済等の環境の違いに基づく不平等を埋めることを目的とする。機会の均等ばかりを実現させても実質的平等には遠く、福祉国家の思想から退行し兼ねないとの危惧を抱き、筆を採った次第である。 なお、「研究会」は2021年8月初旬、男女別定員制の廃止を求める30,153筆の署名と要望書を小池百合子東京都知事と同教育委員会に提出している(毎日新聞2021年8月6日東京朝刊)。
▽男女別定員制の沿革 敗戦後、多くの公立学校が男女別定員制を設けていたが、現在は都立高が採用するのみとなった。群馬県では、男子高・女子高は別とし、県立高崎商業高校がそれまで男女別であったのを、2021年度から一括募集に変更している。また、長野県では、県立中学校2校(諏訪星稜高等学校附属中学校、屋代高等学校附属中学校)の入試で男女別の募集枠を決めていた(2022年度から廃止を決定)。 男女共学は、小学区制、総合制と共に、新制高校創設に際し総司令部より提示された高校三原則の一つである。元来男女別定員制は、男女共学の趣旨を具現化する目的で採り入れられた。上記「意見書」にも、「1950(昭和25)年に、新憲法のもと別学から共学に転換し男女平等な教育を保障すること、特に戦前に教育機会や教育レベルが限定されていた女子の学力が低いため、女子の合格者数を確保し、男女間の教育格差を縮小することを目的として導入された」とある通りである。 1950年度の都立高第1次募集(全日制普通科)における男女別定員は、例えば日比谷高校(旧府立第1中学校)が300名/100名であったのに対し、八潮高校(旧府立第8高等女学校)は100名/300名となっていた。これは、男女に学力の差があったこと、旧学制下の男子校・女子校をそれぞれ前身としたことによる(小野寺「戦後都立高等学校における男女共学制の導入過程」早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊20号2巻〈2013年3月〉17〜18頁)。敗戦前の男女別学制下、高等女学校では男子が通う中学校と比し、外国語や理数科の授業時数が少なかったのである(文部省「学制100年史」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317630.htm )。同年の高等学校への進学率は全国で、男子が48.0 %であるのに対し、女子は36.7 %であった(内閣府男女共同参画局「男女共同参画白書 2021年版」125頁)。 その後、男女別定員の差は縮小され、現在は全都立高において、都内公立中学校卒業生の男女比率に応じた数が設定されるようになった(小野寺、前掲「都立高等学校における男女別入学定員の変遷」65頁)。1998年度からは、男女を一緒にして得点順に合格を決める緩和措置が一部に導入された。2021年度には定員のうち9割まで男女別に合否を判定し、残る1割を緩和措置の対象とする方式を42校が採用している。2020年度の高校進学率は、男子が95.3%、女子が95.7%に上っている(内閣府男女共同参画局「前掲書」125頁)。
▽両性の本質的平等と男女共学 日本国憲法は、14条1項で法の下の平等を規定し、 かつ、24条2項で「両性の本質的平等」を保障する。一方、1947年3月31日に公布・施行された教育基本法(‘47教基法)は、3条で教育の機会均等を定め、尚また5条では「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない」としている。両者はいずれも、総論的な平等条項を置くだけでなく、各論として両性の本質的平等規定を加えている。 男女共学制は、両性の本質的平等を樹立・維持するのに欠くことが出来ない。日本では、「教育令」(1872〈明治12〉年9月29日太政官布告第40号)が、小学校を除き「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス」(42条)と定めて以降、男女別学が原則であった(「學級編成等ニ関スル規則」〈1891年〉2条4項、「國民學校令施行規則」〈1941年〉51条も参照されたい)。 敗戦後、占領軍が示した日本国の改革の柱は、自由主義と民主主義であった。教育に於いても同様で、民主化を図る為の重要な原則の一つに示されたのが、男女共学制である。米国教育使節団報告書(1946年)は、「われわれは、小学校は男女共学を基礎として運営されるよう勧告する」・「(下級中等学校)の段階にも小学校と同じ原理が適用できるので・・・男女共学にすべきである」・「(上級中等学校)でもまた、男女共学が財政的節約になるだけでなく、男女の平等を確立する助けとなるであろう」としていた(村井実全訳解説「アメリカ教育使節団報告書」1979年、講談社、63〜64頁)。高等教育に関しては、「男女平等が実際に真実となりうるためには、早い時期に女子にも男子と同様に健全且つ徹底した教育を保証するような措置が必要である」と説いていた(村井「前掲書」114〜115頁)。 なお、同報告書の序論には、「子供たちの測り知れない資質は、自由主義の陽光の下でのみ豊かな実を結ぶ」とあり、また、民主主義に関して、「宗旨ではなく、人間の解放された力をあらゆる多様性の中で発揮できるようにするための有効な手段」で、かつ、「遥か彼方の目標としてではなく、現存するすべての自由の始発的な精神としてとらえられなければならない」と述べている。そして「平等な取扱いの吟味は、民主主義の根本である」と説いた上で、「個人の能力にふさわしい教育機会が、性別・人種・信条・皮膚の色如何に関わらず、すべての人に平等に与えられるべきである」と具体化している(村井「前掲書」22〜23頁)。これらの記述等から、‘47教基法の男女共学条項は、「教育の機会均等原則を根幹として教育制度における男女の取り扱いを平等にしようとするもの」として解され、「共学制度に対する積極的な支持理由は米国教育使節団が示した財政的節約であった」と推測出来ることに注意する必要がある(広瀬裕子「戦後学制改革期における男女共学化に関する一考察 」教育学研究49巻3号、1982年、66〜67頁)。 1946年7月、臨時法制調査会(1947年7月、吉田茂内閣が日本国憲法制定に伴い各種法制を調査・審議する機関として設置した)は、各学校令の入学資格──大学令における大学予科の入学資格、高等学校における高等学校高等科の入学資格等──が「教育の機会均等や男女平等という憲法上の原則による理由」の為、「現行教育法令中憲法改正草案に抵触すると思われる部分」として指摘したのであった(鈴木英一「戦後の教育改革 (イ)制度・政策の側面を中心に──教育基本法の立法者意思について」 37巻3号、1970年、33〜34頁)。
▽男女共学で「異性への理解が深まった」 教育史学の泰斗である唐澤富太郎博士は(1931年生)、1945年4月10日に東京第二師範学校男子部予科、1948年4月30日に東京高等師範学校本科に入学した後、1949年7月18日に東京文理科大学教育学部分校に進んで1951年3月19日に修了した。旧学制から新学制への移行時、男女共学制が導入された頃の師範学校の様子を以下の如く書き残している。 「最後に大きな問題は、男女共学が実施せられたことである。最初の年は後者は別で、名実ともの共学という訳ではなかったが、23年度から40名の級中10名位は女生徒が占めるようになった。初めはギゴチなさを感じたが、2学期頃からは、その感じもやや薄れた。女子の募集人員は80名だったと思う。共学による影響としては、男生徒のバンカラ性が止んだことで一般に身だしなみがよくなりなり、またそれ迄は、異性は近寄り難いものと思って居り、特に接触する折には恥ずかしさが先に立ったのが、共学に依って、異性と人間的に接触することが出来、それを通じて異性の特色を知り、異性への理解が深まり、異性を見る目が肥えたということであろう」(唐澤富太郎「教師の歴史」1955年、創文社、309頁)。 高校における男女共学は、小・中学校とは異なり、全国で早期の一律実施とはならなかった。新学制発足に向け参考とすべく文部省は「新学校制度実施準備に関する件」を発出して配布した「新学校制度実施準備の案内」(文部省学校局長1947 〈昭和22〉年2月17日発学第63号、「新制高等学校実施の手引き」「新制高等学校実施準備に関する件」(文部省学校局長1947年12月27日発学第534号) では、「必ずしも男女共学でなくてもよい、男子も女子も教育上は機会均等であるという新制度の根本原則と、『地方の実情、なかんずく地域の教育的意見を尊重して』決定すべきである」(文部省「学制百年史」1972年、ぎょうせい、727頁)と説明していたのである。 新制高校発足から約1年後の1949年9月末には、「全国1826校のうち57,8%にあたる1056校が」共学になった(広瀬「前掲書」67頁)。10年経過した1962年度、国・公立の男女共学校(全日制・定時制の本校)は2424校、男のみの学校は482校、女のみの学校は166校存在しており、共学校の割合は78.9%であった(文部省「学校調査 高等学校1962〈昭和37〉年度」第57表https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&query= 男女別学校数&layout=dataset&toukei=00400001&tstat=000001011528&metadata=1&data=1 2021年7月24日取得)。2020年度には、同じく3409校、15校、33校となっており(文部科学省「学校調査・学校通信教育調査(高等学校)2020〈令和2〉年度」第127表https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=2&query= 男女別学校数&layout=dataset&toukei=00400001&tstat=000001011528&metadata=1&data=1 2021年7月24日取得。但しこの表は男子校・女子校という分類ではなく、現実に在学している生徒の状況による分類)、共学校は98.6%を占めている。 今日に至るも、栃木・群馬・埼玉県には未だ公立の男子高・女子高が存在しているのは、周知の通りである。3県の男子高は16校(足利・宇都宮・大田原・栃木・真岡・太田・渋川・高崎・館林・沼田・前橋・浦和・春日部・川越・熊谷・松山)、同じく女子校は6校(足利女子・宇都宮女子・宇都宮中央女子・大田原女子・太田女子・浦和第一女子)ある。加えて、公立商業高校としては唯一の男子高である鹿児島市立商業、公立女子校の海南市立海南下津高等学校(家庭科を専門とする女子校の海南市高等学校と下津女子高等学校が統合されて2007年度に設立されたが、2023年度をもって閉校が予定されている)。
▽安倍政権による男女共学条項の削除 先述のように、‘47教基法は憲法に呼応し、男女平等の確立に向け念を押しているのである。それにも関わらず、第1次安倍晋三内閣下で成立した’06教基法で男女共学条項が削除されてしまったことを忘れてはならない。 2014年度に「公立の中高一貫校としては全国初の全寮制男子校」である「鹿児島県立楠隼中学校・高等学校」(併設型中高一貫教育校)が誕生したことは、この改正と無関係ではない。敗戦後に新設された公立男子校は同校が初めてだろうが、教育基本法から男女共学条項が除けられていなければ、「世界を見通すリーダーを育成するための教育」(楠隼中学校・高等学校ホームページhttp://www.edu.pref.kagoshima.jp/sh/nansyun/docs/2019040900032/ 2021年7月23日取得)等を謳い文句とする公立男子校は、設立され得なかったのではないかと思う。 (つづく)
|