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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2024年09月03日20時05分掲載
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文化
野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行15》山奥にあった大沢鉱山 大館市比内町地内
大沢鉱山は山奥にあった。労働力不足で1944年から強制連行の朝鮮人を受け入れたが、よく殴られていたという証言が残っている。逃亡も多かった。(大野和興)
◆朝鮮人はよく殴られた
JR花輪線扇田駅から犀川に添って16キロ上流の大葛集落を過ぎると、東の山合いから金山川が流れて合流する。金山川入口の両側は峻険な山がつき立っており、そこに大沢鉱山があった。休山後に沈殿池などが埋められ、今は温泉宿比内ベニヤマ荘が建っている。
大沢鉱山は1906(明治39)年に発見され、その後に移譲が続き、1930(昭和5)年に三井鉱山が買収してから発展した。アジア太平洋戦争の時には「準軍需工場の扱いを受けた」という。大沢鉱山は奥地にあるため日本人の労働者を集めることが難しく、早くから朝鮮人が経営する二つの飯場が今の比内ベニヤマ荘の下にあった。
精錬所を片付けた粗末な建物に、150人から200人の朝鮮人が入っていた。自由募集で来た人たちで、家族連れが多かった。それでも労働力が不足したので強制連行者を申請したがすぐに受け入れられず、旧厚生省の調査では1944(昭和19)年に78人が来ている。
強制連行者は鉱山から約3キロ離れた犀川岸の林の中にある2階建ての飯場に入り、朝は集団で来て働き、帰りも集団だった。朝鮮人は番号で呼ばれ、飯場の管理は戦地から帰った下士官を頭に3人の労務係がいた。連行者は坑内や坑外で働いたが、「腹が減るとよく言っていた」(佐藤信吉)とか、「朝鮮をよくもまあ殴ぐるものだ」(山本栄)という話はよく聞いたが、飯場が離れているので実際の様子はわからなかった。
自由募集の人たちのことはわからないが、強制連行者たちは旧厚生省の調査では敗戦後までに帰国者6人、負傷や死亡者はなく、逃亡者は46人と多い。冬に逃亡しているが、冬期は積雪2〜3メートルにもなるので、地理に不明な所をどのように逃げたのだろうか。
参考文献 野添憲治『秋田県における朝鮮人強制連行』(社会評論社)2005年 『朝鮮人労務者に関する調査』1946年
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戦時中の大沢鉱山
鉱山付近地図
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