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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2007年07月28日18時29分掲載
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戦争を知らない世代へ
日中戦争野戦病院での忘れられない光景 中谷孝(元日本軍特務機関員)
戦争の記憶も薄らいだ昭和40年代であったと思う。テレビで和歌山県出身の篤農ミカン農家を紹介していた。隻脚の主人公は松葉杖一本でピョンピョン飛び跳ねて、斜面のミカン畑を廻っていた。そしてナレーションは、彼が昭和19年(1944年)春に中支戦線で負傷したと伝えた。その当時、中支で右脚を失った兵士は何人もいなかったであろう。私はある野戦病院の光景を思い出した。
戦地で傷病兵の治療に当たったのは陸軍病院と野戦病院である。戦地でも師団や旅団司令部の在る後方基地には陸軍病院があった。陸軍病院は設備も整い、日本赤十字社から派遣された看護婦が派遣されていて、私の入院経験では、退屈ではあったが居心地は悪くなかった。しかし移動する前線の野戦病院は応急処置が使命であるから、設備も無く、手荒な処置もやむを得なかった。随所随所に開設される野戦病院を眼にすることはなかったが、作戦中の一夜、偶然それを眼にすることになった。
昭和19年春の南陵作戦に特務工作班員として参加した。揚子江南岸の商業都市蕪湖に集結し主力部隊に一日遅れて出発した。
揚子江の支流清戈の清流を遡行し西河鎮より西へ向かい南陵の中間点の集落に宿営した。戦闘は終わり静寂に戻っていたが人影は無く、無人の一軒の大きな家を宿舎に当てた。私たちの入った部屋の窓は院子(ユアンズ、中庭)に面し、そこで炊事が始まっていた。食後は疲れが出て早く寝たが、ひと眠りした頃院子が騒々しい。
火を起こし大鍋を掛けた。何で今頃炊事をするのかと見ていると、麻雀机を二つ並べて天幕を掛けた。その上に担架で運ばれて来た兵士が載せられた。それで納得出来た、緊急手術である。間もなく軍医が現われ手術が始まった。火を起こしたのは器具の煮沸消毒のためである。全身麻酔がかかっていても、かすかに「痛い、痛い」という声が聞こえた。軍医の手許は背中に隠れて見えない。
ねむくなって、うつらうつらしていると軍医の声がした。手術は終わり、軍医は衛生兵に何か指示して去って行った。その時の台の上の光景は未だに眼に焼き付いている。台上に眠る傷兵の右脚は膝から下が無い。傷口はソーセージの様に見えた。そして数十センチ離れて彼の右脚が転がっていた。私が最初に、そして最後に見た野戦病院である。
戦争が終わってから20数年後に私がテレビで見た隻脚の主人公は、恐らくあの兵士だ。元気で良かったと嬉しくなった。そしてあの野戦病院を思い出した。
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