トランプ米大統領はアメリカ第1主義こそが自分に課せられた任務であると称して、アメリカに不利と思う他国からの輸入を制限し、自国に有利になると称して関税を勝手に引き上げ、しかも事情に応じて適当に変えることにより、世界中を混乱させた。その上、アメリカの本来の帝国主義が、自分が最高点で大統領に当選したことでアメリカ市民から支持されているとして、ほとんど勝手に(法規などは無視)他国へ軍事的に介入し、他国の、自分たち(米国、イスラエル)にとって不都合な政権を覆すことを、平気で行っている。そうした米国のやり方は、多くの国から非難を浴びているが、日本の高市政権は、アメリカにべったりの態度をとり、過去80年、日本が保持してきた憲法(特に平和憲法9条)を改悪しようとしている。こんな状況下、自分がかつて(2007年で大分古いですが)、ここに投稿した論 [注]が、意義があるかと思い、ここに再投稿します。(落合栄一郎)
▽戦争意識 アメリカは、南北戦争終了後の19世紀後半以降、西ヨーロッパ諸国には大分遅れをとったが、帝国/植民主義政策を遂行してきた。それは企業/資本家の徹底した資本主義市場経済の拡張主義を実現するためである。その伝統は今でも生き残っている。20世紀に入り、多くの西ヨーロッパ諸国は二つの世界大戦によって疲弊し、植民地の多くを手放さざるを得なくなったし、露骨な植民主義はタブーになった。 殆ど唯一の、疲弊を免れたアメリカは、西ヨーロッパも含む疲弊しきった世界で、しばしの間慈善的国家の役割を果した。日本人のアメリカという国に対する好感は、この期に作られたものと思われる。これは、おそらく第2次世界大戦後の10年ぐらいの期間であった。(もちろん、アメリカの大衆文化が、日本の大衆にアッピールし続けていることもアメリカに対する好感情に寄与してはいるが。) その後、1950年代半ばぐらいから、アメリカの覇権主義はまた顕著になる。朝鮮戦争、ヴェトナム戦争は、直接的には企業の市場獲得にはあまり役に立たなかった。ヴェトナム戦争は、共産国の拡大を阻止することによって、資本主義市場を確保するという目論みであったが、実にアメリカ史上初めての敗北に終わった。それは、兵器/軍事力の強弱、多少のみが、戦争を左右しえないことを如実に示した。 一方歴代のアメリカ政府は、CIAなどを使って秘密裏に、反アメリカ的国家の政府転覆を実行してきた。それは、主としてアメリカの多国籍大企業に、好都合にことが運ぶようにするのが目的である。その一方、冷戦構造を軍事を強化する口実にして来た。その構造が崩壊した後は仮想敵国の模索—それを口実にした軍備拡張/企業利益の増大の機会を模索し続けており、現在のところ、不特定のテロとその背景にあるイスラム世界を敵にしている。 イスラエル建国後、シオニスト(選民ユダヤ民族が他民族を排除してもパレスチナに住む権利を主張)の組織がアメリカの政治を支配(現在は、ネオコンなるイデオローグを通じて)し、自分達に好都合な政策をアメリカ政府に取らせるべく、立法府/行政府に浸透し、殆どその思うがままに操るようになった。彼らはマスメデイアの多くも掌握しているがために、真実が大衆に伝えられない。これには、ナチスによるホロコーストに対する反省が、イスラエルの政策に対する疑問や反対を、反セミ族(anti—Semitism)なる人種差別として非難されることを恐れる雰囲気があるためであり、シオニストはそれを強調し、利用している。例えば、最近、元大統領のカーター氏がイスラエルのパレスチナ政策に非常に批判的な本を出版したが、マスメデイアは非難するか、無視しているので、表向きには話題になっていない。 その上、アメリカ人の多くにある反知性(anti—intellectualism)の精神は宗教の無批判な信仰、宗教原理主義を育んでおり、ここ数十年は特にそれが顕著になってきている。それは、現在政治を司る人間達がそうした傾向をもち、国民にその方向を暗に奨励しているからでもある。特に問題なのは、聖書の最後に位置する「黙示録」で、これは聖書解釈上問題を提供しつづけてきた文書であるが、それを文字通りに信じ込む傾向が強くなってきた。 『Left behind』なる、黙示録を敷衍、エンタテインメント化した小説が、原理主義的キリスト教信者の間で、ベストセラーになり、映画が作られもてはやされている。エンタテインメントと割り切れるならば、問題はないが、それをこれから起るであろうことの予言とみる人々が多い。そしてその予言の実現を待ち望むし、その実現のためには、助力を惜しんではいけないと思い込む傾向がある。 その過程で、アーマゲドンなる最終戦争があり、破壊の後にキリストが再臨し、それを信じるキリスト者が救われるということだそうである。自分達のみが、選ばれて救われるーそのためには、自分達以外のすべては破壊されてしかるべしーという非常に狭量な思想である。こうした絶対信仰が、実はユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの一神教に共通した思考で、そしてそれを巡って殺戮が繰り返されて来た。それが、この黙示録信仰で先鋭化されている。しかしこの傾向がアメリカの少数派なら問題は少ないが、キリストの再来を信じるアメリカ人は40%を下らないらしい。 これらの3大宗教はすべて中東という砂漠かそれに近い自然環境で発生したもので、その自然環境が色濃く影を落としている。生存条件が厳しい砂漠の遊牧生活では、自己保存のためには他者を滅ぼさざるをえない(他者の共存を許す食糧/資源の余裕がない)。これらの神は、したがって、自分以外の神を信ずるものを破壊することを信徒に命ずる。信教の純粋性の名目のもとに。すなわちこれらの大宗教はこの意味で、非常に偏狭な非寛容な宗教なのである。 その影響は、より普遍的だとされる新教(すなわちキリスト教、旧教がユダヤ教)にも残っており、イエスキリストを信じない人々は火に投げ込むべしといった発言が、イエス自身から発せられたことと聖書には記録されている。すなわち、イスラム、ユダヤ、キリスト教の聖典は、それらを書き残し編纂した人々の置かれた自然環境、他者との関係、そしてその時期の人類の知識を反映している。しかし、聖典は神から啓示されたものであり、絶対の真実であると信じ込まされる(乳幼児期からの教唆で)。アメリカ人の多くは未だに、神による人間の創造神話を信じており、科学的な生命の起源と進化を信じようとはしない。こうした傾向(聖典コーランを字句通りに信じること)は、イスラム教ではより強い。 今後起ろうとしている中東の更なる混乱や破壊(アメリカ、イスラエルのイラン、シリアへの侵攻も含めて)は、このアーマゲドンの過程の一部であり、起るべくして起るもの、そしてアメリカはそれに加担すべきものといった考えが、アメリカの中枢(や多くの民衆)に巣くっている。その背後にはシオニストとそうした混乱や破壊から利益を満喫できるであろう軍需産業や石油企業などの大企業があるのをアメリカ人の多くは気づいていないようである。 2006年の中間選挙は、民主党の勝利をもたらした。しかしこれは単に、イラクの情勢と共和党の有力議員などの倫理上の問題の表面化に嫌気がさした結果であり、根本的なアメリカ潮流の変化ではない。というのは、イラク侵略には、民主党も加担したわけで、その点に関して言えば共和党とさしたる差はない。 9/11事件との関連でイラク侵略を民主党にも同意させた理由は、大量破壊兵器の存在という政府によるデマと、当時のイラク政府がテロ組織アルカイダと関係をもっているというこれも政府によるでっち上げを信じたことに基づいているとされている。しかし、戦争突入以前にも、大量破壊兵器が存在しないこと、アルカイダとの関連はないことは、かなりの確度でCIAなどでは周知されていたはず(筆者自身もイラク侵攻前にそのような情報を種々なソースから得ていた)で、それにも拘らず、アメリカ国民の多くや民主党などの国会議員(共和党員はもちろん)が、イラク侵略を許したのはこれまで述べてきたアメリカの種々の戦争意識が底流としてあるためであろう。 日本人のかなりの識者でも、今回のアメリカ中間選挙で民主党が勝利したことを、右から左(中道)へより戻す民主主義的バランス感覚がまだ機能しているかのごとく認識し、そのように発言しておるようであるが、もう少し深く情勢を把握してほしいと思う。しかし、イラクでの無惨/悲惨な状況(とアメリカ市民の税金の浪費という認識)は、イラクからのアメリカ軍の撤退を要求する声を高めている。イラク侵攻の根本的間違いは不問にしてではあるが。
▽平和運動とその限界 前述のようなアメリカにも勿論、戦争の悪を知り、平和をもたらそうと努力している人々がかなりいることも事実である。筆者が化学の教鞭をとっていたペンシルヴァニア州の真ん中にある大学での平和運動をアメリカの中にある平和運動の一つとして紹介したい。 この大学は、キリスト教の一派、ブラザレン派の師範学校として創立されたものである。ブラザレン派というのは、クエーカーなどとともに、平和教会として知られており、戦争絶対反対、その信者からは多くの兵役拒否者を出した。こういう伝統があるので(現在では教会とは直接の関係はないが)、古くから(第2次世界大戦直後)平和問題を考えるプログラムを創設し、現在は、平和問題研究所なるものを持っている。イラク侵攻前後には、種々の反対運動がこの組織及び大学全体(反戦意識が強い)で行なわれた。教師の中に、元ベトナム兵士出身者がおり、彼自身の経験—戦場が兵士を非人間化する—に基づき、現在の戦場にいるかまたは戦場にかり出されようとしている兵士に参戦拒否の奨めの運動を行なっている人がいる。 もう一人別な教師は、どうしたきっかけか、アフリカのマリ共和国の内戦に関与して、停戦を斡旋したばかりでなく、双方の武器の放棄を勝ち取ったー彼が火につつまれる武器の山のそばにいる写真を見たので事実と思う(彼は筆者の友人で疑う理由はないが)。彼は90年代の中頃には、5年間にわたって、国連の軍縮専門家と紛争当事国の双方の関係者(教育者)を招いて、2週間のセミナーも主催した。例えば、パレスチナ、レバノンとイスラエルの教育者が一堂に会して議論する場を提供したわけである。勿論関係者は、このような機会はこんなことがなければ絶対にないと感激していた。これらは一般公開であったので、筆者は、出来るだけ傍聴に出かけた。 さて、こうした平和運動は、クエーカー、メノナイトなどのキリスト教のなかのいわゆる平和教会をはじめ、アメリカのかなりの場所や人々によって行なわれている。それらが、アメリカの大勢に影響を及ぼせないでいるのが問題である。それはなぜなのか、問題は大変複雑だが、その概略をまとめてみたい。 まず、先に述べたように、反セミ族という烙印を押されることへの恐怖(ナチズムへの反省)、それを有効に利用した現イスラエル(シオニスト)によるアメリカ上層部への懐柔策が極端に浸透し、アメリカの国会議員になるためには、イスラエルの現在の政策、特にパレスチナへの拡大を肯定しなければならないという雰囲気/事実がある。先に述べたカーター氏の本が出た時、今回下院議長になった民主党党首ペローシ女史は、あの見解は民主党とは関係ないと躍起になって否定したものである。 現アメリカ中枢部は、先述のように、キリスト教原理主義やイスラエル政策の後押し、企業の利益のために、戦争拡大を画策している。もちろん公の建前は、中東に民主主義をもたらすことであり、残念ながら、兵士の多くは、そのように洗脳されている。または、兵士もその家族も自分達の行為を正当化せんがためにそう信じ込もうとしている。もっとも兵士の多くは貧困と教育機会の少なさから、唯一の現金収入源としての兵士稼業を強いられているのだが。 現政権の首脳部ばかりでなく、アメリカ人の多くは、先述のように、キリストの再来を信じていて、その前哨に、アーマゲドンなる徹底的な破壊を伴う大規模な戦争などということを本気で信じているらしい。 こういう非理性的信仰を持つ人々にその信仰内容を放棄させることは、非常に難しい。一つには「信教の自由」という壁が立ちはだかる。しかし、アメリカ人の多くがキリスト教徒であり、自らが互いに啓蒙しあわなければ、解決のしようがない。ブラザレン派であれ、何派であれ、理性をもった人々が、教育(広い意味の)を通して非理性的信仰内容を指摘し、矯正していかなければならないー非常に迂遠な道程であるが。 石油資源確保/利権獲得のためには、戦争をも敢えてするという企業精神構造すなわち現在の資本主義市場経済、とそれに歩調を合わせる政府という政治経済構造と、非寛容/非理性的信仰は、アメリカに限らず、地上の平和確立への最大の障害であろう。アメリカの平和運動(アメリカに限らないが)は、こうした根本的問題にも取り組まないとアメリカを根底から変えるのは難しい。
▽平和憲法とその意義 さて日本の平和憲法は、こうしたアメリカ(その他の国)の戦争意識にどのような影響を及ぼすことができるであろうか。先ず日本の文化から、戦争意識に関する部分を検討してみよう。 幸いと言うべきと思うが、日本人の大部分は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教的な一神教の束縛を受けていない。日本の固有の宗教観には、神の概念はあるが、人間や自然を超越した唯一の絶対神の概念とは違う。これらの大宗教の一般的倫理的側面はともかく、そのよって来る他神(の信奉者)排斥や砂漠の遊牧民の好戦精神などは日本人とは無縁であった。 信仰という思考様式は、聖典の聖性が確立される(と思い込まされる)と、その変更が非常に困難になる。これは、信仰というものが、与えられたものそのままを理解(批判)せずに信じ込むこととされているからで、理解してから信じるのは、信仰ではないとされる。すなわち非理性的信仰こそが真の信仰とされる。(仏教での信仰はそれとは大分異なる)それは一度獲得してしまうと(特に批判精神の発達する以前に)、それに反することは脳が拒否するようになる。 現在の地球上の人々の環境や他者との関係はこれらの宗教発生時の状況とは大幅に違ってしまっているにも拘らず、それぞれの神の言葉を絶対的真理と信じるがために、聖典の内容の問題点とその現世界への不適応さが批判されえない。批判は直ちに、異端として迫害されてしまう。ルターが宗教内部から声を上げたが、そうした内部からの告発が今こそ必要である。これが、アメリカ、西欧、イスラエル,イスラム世界の国々の人々(これらの伝統宗教の信者)に科せられた重大課題であるが、そう意識している人は残念ながらあまり多くないようである。信仰(非理性的)というものの限界である。これは、3代宗教に限らず、あらゆる宗教における問題でもある。伝統的宗教の原典への固執は、人間活動のうちでは非常にユニークである。宗教以外の分野では、人間は進歩/発展/知識の集積に伴い、考え方や行動の変化を行なってきた。 日本人は古来より、こうした形式の信仰的思考を持たない。未知のもの、不可解なものを神と称するが、その神が人々の生活を規制するような聖典を表したことはない。天皇中心主義/国体主義が、第2次世界大戦前におけるように国民の意識を縛り付ける作用を発揮したのは、政府その他の教育を通しての意識的な洗脳の結果であった。神道そのものの影響ではない。現安倍内閣は、教育基本法を改訂して、意識的に戦前のような洗脳を行なおうとしている。 さて、日本国憲法に体現されている平和主義の意義−アメリカとそれに従属する日本国へのーを考察しよう。 憲法は、「国際間の信義と公正に依拠して」「国家間の紛争のために戦争という手段に訴えることを放棄する」と宣言している。この根本にあるのは、外交交渉によって紛争解決は可能であるという人間理性への信頼であろう。これは、他国や他民族を信頼できないというおそらく砂漠遊牧民の精神に由来する、常に武器を持って対決する準備を怠らないという根本精神の対極である。この後者の態度が、人類始まって以来の国家や種族のいわば標準であり、そういう国家を称して「正常(normal)国家」と呼ぶようである。そしてこうした正常国家から成り立っているこの地球世界には、未だかって恒久平和がもたらされたことはなかった。 軍備は相手方の軍備を引き起こして、それに対抗すべくまたまた軍備を増強することになる。これの繰り返しが、全地球人を一度ならず数度も殺しうる兵器を人類が持つことになってしまったという現状をもたらしている。 「平和主義」を自ら宣言して、自らの破壊的傾向を自制することは、おそらく唯一の戦争回避、恒久平和招来の現実的な方法であろう。「正常国家」の多くを、このような「平和主義」を掲げる国家に転換させることと、先ほどから述べているような戦争意識を捨てさせることが必要である。 最後に自衛権の問題を少しばかり議論したい。自衛とは、主観的にも客観的にも自己の存続が脅威に晒されている場合に正当化されうる。個人対個人で自衛が問題になる状況では、話し合いの猶予がない場合が多いであろう。しかし、国家間の紛争の場合には、通常十分に話し合い(外交)の余地と余裕がある。しかも、国家そのものの存続を脅かすほどの状況は、それほど多くはない。(イスラエルの現状況が殆ど唯一の例であろうが、単純ではなくここで議論するのは不適当。)一般的に言って、テロリストによる局部的攻撃は、国家の存在を脅かすほどのことはない。 9/11事件はアメリカ人ですら、自国の存続を脅かすほどのことだとは思っていない。故に、それを根拠に、(不特定の)テロリストを撲滅すると称して、他国を侵攻することは、自衛権の行使とはとてもいえない。自分達の安全をはかるという口実で、多数の他国市民の安全を破壊することは、許されることだろうか。しかもそうした他国民になんらの責任もないのにである。 9/11事件が、本当に(アメリカ政府の特定した)テロリストによって遂行されたかどうかには大いに疑問があることは、多くの人の認めることである。このような軍需産業/石油企業を富ますだけの戦争に「集団自衛」権の行使として、アメリカに加担することは賢いことであろうか。憲法を改訂してまでも、こんなアメリカに追従しようとする安倍政権の精神構造はどうなっているのであろうか。むしろ、日本国は現憲法を維持して、それをアメリカその他の国に対して、将来のモデルとして提供することこそが、人類への計り知れない貢献になるであろう。
(2007.02.16に掲載の記事の再録)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200702161058135
落合栄一郎(カナダヴァンクーヴァー在住)
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