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 橋本勝21世紀風刺絵日記
 
 
 
 
 
 
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 | 2008年07月19日17時31分掲載
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 ブラジル農業にかけた一日本人の戦い<10>真綿で首を絞めるような米国の食糧戦略 和田秀子(フリーライター)
 
    
     | ■開拓団地を買い戻したものの… 
 横田さんが、融資先を求めて日本で奔走していた約40日の間に、整地されていたバヘイラスの「戦後移住者開拓団地」には雑草が生え、無残な姿に変わりつつあった。
 
 5,000万円の資金を携えてブラジルに戻った横田さんは、さっそくコチア産業組合の上層部たちと交渉し、「戦後移住者開拓団地」の買い戻しを進めていった。その結果、「組合側から借り受けている一切の資材や耕具を返却すれば、借金を帳消しにし、土地の売却に応ずる」という契約を取り付けたのだ。1992年の夏のことだった。
 
 横田さんは、開拓団地に残っている12家族を集めてこう言った。
 「トラクターから何から、今俺らが持っているものは全部組合に引き渡そう。そしたら借金はゼロになる。ただし、植え付けはもうちょっと待ってくれ。こんなに金利が高くては、作れば作るほど損になる。時期がくるまでは、自給自足の生活をして耐えてくれ」
 当時の金利は20%。とても、新たに資金を借り受け、植え付けできる余裕はなかったのだ。
 
 しかし、こうした横田さんの呼びかけに応じたのは、12家族中4家族のみだった。せっかく日本から資金を調達してきたものの、あとの8家族は、開拓の夢をあきらめて出て行った。それも無理はなかった。
 「みんな、膨らむばかりの借金と八方ふさがりの状況に、精も根も尽き果てていたんでしょう」と横田さんは言う。
 
 ■日本への“デカセギ”
 
 「農業の神様」「緑の魔術師」とまで呼ばれた彼らが、すべての財産を失ったあとに向かったのは、日本であった。1980年代後半の日本では、ブラジルから “デカセギ”にやってくる日系ブラジル人が増え始めていたが、これは、ブラジル農業が打撃を受けたことが大きな要因だったのだ。
 日本語が分からない日系2世や3世たちも多く、日本人との間にトラブルが頻発し、問題となっていたことは記憶に新しいところだろう。
 
 横田さん自身も、例外ではなかった。バヘイラスの「戦後移住者開拓団地」は守ったものの、サンパウロ州の土地を売り払った横田さんには、ほとんど財産が残っていなかった。しかし、5人の子どもは育てていかねばならない。横田さんの奥さまは、その生活費を稼ぐため、たったひとりで日本へと“デカセギ”に出かけていたのだ。残念なことに、横田一家は崩壊へと向かっていた。
 
 ■コチア産業組合の崩壊と、恐るべきアメリカの食糧戦略
 
 一方、 “中南米で最大の農業組合”という名声を欲しいままにしていたコチア産業組合も、借金が莫大に膨れあがり、経営は悪化の一途をたどっていた。バヘイラスの「戦後移住者開拓団地」も売却し、その他の事業も縮小したが、すべて焼け石に水。日本政府からの融資の取り付けにも失敗したうえ、銀行からの取引も停止され、1994年9月、ついに自主解散となった。早い話、潰れてしまったのである。コチア産業組合の創立から、67年目の出来事であった。
 
 ちょうどこの頃、ブラジル社会で衰退してゆく日系農家を尻目に、ブラジルへ進出しはじめていたのがアメリカであった。アメリカは1960年代より、“緑の革命”と呼ばれる世界規模での食糧増産戦略を展開しており、発展途上国を中心に、大量の農薬や肥料、大型の灌漑設備、そして生産性の高い種子などをバラ撒くことで、食糧生産高の拡大をはかっていた。
 
 こうしたアメリカの食糧戦略は、ブラジルでも実を結びつつあった。かつては、セラード開発の先陣を切ったコチア産業組合も、アメリカ式農業を取り入れて、不毛の地を“豊穣の大地”へと作りかえていったのだから…。
 しかし、機が熟すのを待っていたアメリカは、やがてその果実を収穫しにやってきたのだ。
 
 横田さんは言う。
 「俺たちが10年以上かけて開発していたセラードを、じっと横目で狙っていたのがアメリカですよ。“穀物メジャー”がやって来て、組合が潰れたことで、融資が受けられなくなった俺たちの弱みにつけこんで、札束でほっぺたをブン殴るように土地を買い上げていったんです」
 
 1990年代に入り、いわゆる“穀物メジャー”と呼ばれる穀物多国籍商社が、ブラジルでも力を付けはじめていた。少し補足説明しておくと、現在、世界の穀物のほとんどは、2大穀物メジャーと呼ばれるアメリカの「カーギル社」と、「アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社」によって支配されている。アメリカ政府官僚の天下り先としても知られた企業だ。
 
 この“穀物メジャー”がブラジルに進出し、それまで中南米の穀物を仕切っていたコチア産業組合に変わって、穀物市場を支配しはじめていたのだ。彼らとしてみれば、言うことを聞かない農家は追い出して、生産物をスムーズに手中に収めたかったのだろう。あの手この手を使って、横田さんらに圧力をかけはじめた。その手口はこうだ。
 
 「穀物メジャーの奴らがやってきて、『今なら、一俵7ドルで先物買いしてやる』と言ううんです。俺たちは植え付けの資金もないし、仕方なく一万俵、二万俵と先売りするわけです。だけど、収穫時の国際相場は、その倍の一俵14ドルになる。
 俺たちにとっちゃ大損だけど、契約した手前、一俵7ドルで引き渡すしかないんです。『あまりにもヒドイじゃないか!』と俺たちが文句を言うと、翌年は『じゃあ融資をしてやる』と言ってくる。その代わり、利子は27%。これも仕方なく契約すると、なかなか融資が下りないんです。作物には、“植え付け時期”というものがあって、1ヶ月も遅れると収穫量は半分に減ってしまう。こうなれば、当然大損です。
 奴らはこれを狙って、生かさぬように殺さぬように、真綿で首を絞めるようにジワジワと、俺たちを追い込んでいったんですよ。どれほど苦しく、悔しかったことか…。でも、植え付け資金の調達をするためは、奴らの言いなりになるほかなかったんです」
 
 地上げ屋のような輩がやってきて、横田さんにピストルを突きつけ「今すぐここから出て行け!」と脅されたこともあったというが、どんな目に合っても、横田さんは決して首を縦にふらなかった。しかし、たいていの人たちは、こうした状況に疲れ果て、土地を捨てて出て行ったのだ。
 
 この時期のことを思い出すと、横田さんは今でも胸が張り裂けそうになると言う。しかし、アメリカの戦略は、これにとどまらなかった。
 (つづく)
 
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