今、東京・下北沢のビストロで居酒屋料理をフレンチに昇華しようと創作料理に打ち込んでいる料理人、原田哲さん。九州から料理人になるために上京した原田哲(さとし)さんに今回は修業時代についておうかがいしました。
Q どのような料理修行をされたんでしょうか?
ただただ過酷。この一言に尽きます。何度死ぬと思ったかわかりません。今となってはあの時間は人生で一番尊い時間だったと実感してますが、当時はただただ逃げ出したい日々でした。。。
料理業界、料理を作る事において僕には2人の師匠がいます。東京に出てきて初めて務めた「bistroわいん亭」の手塚和久シェフと、フレンチというものを骨の髄まで叩き込まれた「L’ami du vin “ENO”(ラミデユヴァンエノ)」の榎本実シェフ。この二人のおかげで今の料理人としての自分が存在していると確信しています。
右も左もわからない異世界東京で、手塚シェフには公私ともにたくさん面倒を見ていただき、そして社会人として大事なことも料理を通して教えていただきました。とにかくやさしいシェフで、あまり怒られたことはないんです。ただ料理に対しての造形は深く、シンプルなクラッシックフレンチを独自の解釈でリーズナブルに美味しく作り上げる天才的なひとでした。 (※別段ですが、ラミデュヴァンエノの修行後、学校講師としてのきっかけを与えていただき、その後学校業務にのめりこむきっかけをつくってくれたのも手塚シェフです)キッチンは手塚シェフと僕の二人だけの小さなお店だったので、前菜からデザート、時にはメインのお料理まで経験させて頂き、技術や心構えを時に厳しく教えてくれる偉大な師匠でした。今でも交流があり、今でも尊敬すべき僕の一番最初の師匠です。
3年間わいん亭で手塚シェフのもと、料理のいろはを学びましたが、お店がワインバーだったのでランチがなく夜のみの営業でした。もっと本格的なフランス料理の修行を朝から晩まで突き詰めたいと思い、一念発起しわいん亭を退社し、今後の人生を左右する事になるとは当時考えもしなかったですが、僕の料理人生を変えた偉大なシェフ、榎本実シェフが経営するラミデュヴァンエノの門を叩くことになりました。
きかっけは不思議なご縁で、わいん亭を退社した日に買った専門誌に榎本シェフのスペシャリテである「小牛ほほ肉とアナゴ、ゴボウの赤ワイン煮」の記事を見たんです。当時の僕は肉と魚介を合わせるという発想自体が創造つかず、そこにゴボウ?一体どんな味になるんだという疑問に頭が困惑したことを覚えています。退社した翌日に手塚シェフのお手伝いで、あるフランス料理シェフグループのイベントにヘルプにいったんです。そうしたら、そこにいたんですよ。榎本シェフが。意外な事に榎本シェフから声をかけて頂き、今フリーだとお話したら、「だったらうちにこないか?一度食べにおいでよ。」とお声掛けいただいたんです。
イベント翌日、すぐ食べに行きました。初めて食べる榎本シェフの料理に感動し、準備していた履歴書をその場で見せて、その場で面接して頂きました。今思えば無鉄砲な若者でしたね。その翌日にはもう働いてました。思いつくと動くの早いんですよね。ただ、ラミデュヴァンエノでの修行こそが、苛烈を極めました。フランス料理全盛期ということもあって、朝の9時から夜の12時まで。
ジビエが売りのお店だったのでシーズンの時期は朝8時から夜中の2時まで休憩はほぼなしで、ただただ料理との格闘でした。年末のおせちのシーズンは5日間泊まり込みで23品100食以上のおせちをノンストップで作り続けました。労働時間もさることながら、もともとアトピー性皮膚炎で手荒れがひどい体質だったので全身にアトピーが発症し、仕事中に皮膚呼吸ができずに倒れたりもしました。
とにかく料理に厳しい榎本シェフは、盛り付け一つ、野菜の切り出し一つ、ミスをすれば烈火の如く怒り、罵声怒声を浴びせられ、もちろん拳が飛んでくることもおおくありました。営業後には正座で説教。自分は生きている価値はないんじゃないかと思えるくらい追いつめられる時期が1年続きました。それくらい榎本シェフの一皿にかける情熱と熱意は何にも勝るものでした。
そんな状況の中、体力の限界で寝坊し、意識うつろな状態でバイクにのり出勤する途中に交通事故にあい、救急車で運ばれたこともありました。今思えば自分でもびっくりするんですが、交通事故にあった2時間後、もう働いてたんです。僕自身は休むつもりだったんですけどシェフに電話したら「ランチ満席だから早く来て」って言われたんです。今となってはOB会の中で伝説的笑い話になってます。シェフも言った記憶がないらしく。12月の超繁忙期だったので毎日が戦争だったのもありますが、さすがにしんどかったです。目の上を2か所4針ずつ縫ったんですが、病院に再診にいく暇がなく、結果自分で爪切りとキッチン消毒液で抜糸したのを覚えています。今となれば完全にネタですね。未だに結構ウケます。
そんな過酷な修行時代でしたが、日々の生活よりも交通事故よりも過酷だったことがあります。1か月間仕事を何もさせてもらえなかった事です。僕が単純なミスを何度も何度も繰り返したんです。いつもなら烈火の如く怒り狂うシェフが、とうとう怒らなくなったんです。「お前は何度言っても直らない。怒っても直らない。もうどうしようもないから何も触るな。」と一言告げられ、その後一か月、キッチンの隅に立っているだけの生活をした期間がありました。
店に出勤して着替えたら、仕込みもさせてもらえない、洗い物もさせてもらえない、どれだけ忙しくなっても何もさせてもらえなかったんです。せめて洗い物をしようとか、フライパンを洗おうとかすると「触らなくていいよ。おまえは何もできないんだから」と怒るわけでもなく諭されるようにシェフに言われるんです。「誰かさんのおかけで仕事が2倍だよ。くそが」と、後輩に直接言われるでもなく聞こえるように揶揄され、年甲斐もなく家で毎晩泣いてました。今でも思い出したら嗚咽がするくらい、辛い1か月でした。
ただ今思うのは、シェフはそれだけやさしく、愛情に深い方かということです。そんな使えないやつ辞めさせればいいんです。人件費も無駄です。でもシェフから「辞めろ」とは最後まで言われませんでした。立っている期間も通常通りの給与を頂きました。辛かったですが、このままでは終われないという思いが燃えていました。なんとしてもシェフに応えなければと。それから立っている間、シェフや後輩の動作、仕事をただただ見続けました。仕事の回し方、包丁使い、鍋の振り方すべてをただ見続けてインプットし続けました。家に帰ったら見たものをノートに書きだし、寝る時も頭で反復してイメージトレーニングを繰り返しました。
立ったまま過ごし始めて1か月が経った頃、尋常ならざる忙しい日がありました。シェフが久しぶりに僕に声をかけてきたんです。「トシ!魚さばけ!(名前がさとしなので、フランス式に名前は2文字で呼ぶお店でした)」一瞬気が動転しましたが、このチャンスを逃せばもう一生ここでは料理できないと思いました。多分これまでの人生で一番集中した瞬間だったと思います。
久しぶりに包丁を持ち、何度も失敗した魚の3枚下しを膨らませたイメージ通りにただ行いました。その魚を見て、何も言わずシェフが料理に移り、そのあと、「ガルニ(付け合わせ)仕上げろ!」と。そこからまた料理に携わり、辞めるまでの期間最後まで皿に携わる事ができました。辞めた後も休みの日には、ヘルプでお店に手伝いに行くことができました。ヘルプに行くときは大体メイン料理を担当させらるのですが、ラミデュヴァンエノのキッチンでだけは、肉や魚を焼くことがトラウマからなのか、どうしようもなく緊張してました。
ただあの立ちっぱなしの一か月があったからこそ、その後の講師業、開発業を行えた、さらには今の僕が出来上がる一番のきっかけだったと今でも思っています。そしてあきらめずに最後まで面倒を見てくれた榎本実シェフには、今でも感謝の気持ちしかありません。
原田哲(さとし)シェフ bistroCHAP(ビストロチャップ)など
■料理への情熱 1 始まりは「お母さんお休みの日」 原田哲(さとし、シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」16 ~我ら兄弟、フランス料理人~ 原田理(フランス料理シェフ)
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