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Writer

記者

小野田明子




社会
私の昭和秘史(16) 昭和とはやはり妖怪の跋扈した時代だったのか  織田狂介
 本稿を書き始めた前後、まことに不思議なことに、まるで符節を合わせたかのように「大平洋戦争」もしくは「戦争」という命題への論議が活発となり、さらには国歌(君が代)と国旗の問題が、大きな社会的事件にまで発展しようとした。然し、いつしかこの論議も、いつもの通り、再びトコトンまで論じ合うに至らず、ウヤムヤになろうとしている。こうした風潮のなかで、私は野田正彰氏(比較文化精神医学の権威)の近著『戦争と罪責』のなかで、「戦争にかかわった世代が、侵略戦争の実態を否認している。そんな環境の中で失われのは、何が起きたのかを具体的に実証的に調べる姿勢である・・・」と指摘し、「今なすべきことは、本当のことを知っているという“事実”を戦争経験者に問いかけてみることである」といっていることが、私にとっては、非常に大事なことではないのかと思うのである。(2019/07/16)


社会
私の昭和秘史(15) 私の真実の聲  織田狂介
 2・26事件に連座し「反乱ほう助罪」という汚名を着せられて、昭和11年5月から15年にかけて獄中生活を余儀なくされた斉藤瀏陸軍少将が、その独房において書き綴った『獄中の記』(昭和15年刊)を、漸く探し求めて国会図書館で閲覧することのできたのは、早春とはいえ手足が凍るつくような氷雨の降る3月中旬のことであった。(2019/05/04)


社会
昭和秘史(14) 斉藤瀏『獄中の記』にみる 2・26事件と恋闕の情  織田狂介
 まず、その一文である『召人・斉藤史(あや)』と題するエッセイを紹介しておこう。これは平静10年新春の「歌会始め」に召人として招かれた歌人・斉藤史さんのことについて、やはり歌人でありかつエッセイストとしても知られる佐伯裕子さんが、毎日新聞・文化欄コラム『短歌トピックス』に寄せられた一文である。(2019/05/02)


社会
昭和秘史(13)  昭和天皇への激しい憤激  織田狂介
 ――この磯部浅一の『獄中手記』は、すべて山崎国紀氏の著書から引用させて頂いたことを改めて記述しておきたい。 (2019/05/01)


社会
私の昭和秘史(12) 蹶起将校23名のうち 15名は“銃殺”された  織田狂介
 “蹶起”から“反乱”の賊徒とされた青年将校らが、事件直後、陸軍首脳らによって「武人として最期を飾れ」などと、歯の浮くような言葉で“自決”を勧められ(強要だった)のを断乎拒否し、あくまで法廷闘争で戦いぬくことを決意したため、軍首脳は止むなく彼ら全員を免官処分とし陸軍衛戍刑務所に収監した。この牢舎は江戸時代の伝馬町獄舎だったものを移転してつくられたといい、現在の渋谷・宇田川町の一角にあったが、いまでは跡形もなくなっているが、現在のNHKセンターの南側にある渋谷区役所あたりが、その跡地であるという。同区役所の西北隅には当時、処刑された青年将校たちの慰霊像が建立されてあることから、わずかに2・26事件を偲ばせるよすがになっているに過ぎない。(2019/03/29)


社会
私の昭和秘史(11) 陸軍上層部の裏切りと 昭和天皇の大御心とは? 織田狂介
 ここでまた、再び山崎国紀著『磯部浅一と2・26事件』の描写と解説に視点を移してみることにしたい。やはり、この著書のなかでの肝心な焦点ともいえる「青年将校たちの蹶起に対する昭和天皇の対応」について深く注目しておきたいからである。(2019/03/27)


私の昭和秘史(10) 「蹶起部隊」から「反乱軍」へ 天皇陛下 何と云ふ 御失政でありますか・・・  織田狂介
 さて、ここではまず『2・26事件』について記録されている多くの関係者たちの文書や日誌の中から、果してこの事件が本当に多くの一般国民(生活に苦しんでいた農漁民や市民たち)の貧乏な生活を救うための「世直し運動」であったのか、どうかを究明しならその真相に迫ってみたい。そのためにまず、さきに引用した『昭和史』(岩波新書)が記述している事件の概況を再録しておきたい。(2019/03/23)


社会
私の昭和秘史(9) 祖父から父へ そして私 黙ってはいられない  織田狂介
昭和11年2月26日早暁、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊(註:近衛とは、主として天皇一家が住まわれる宮城一帯の守備、護衛に当たる人々のことを云う)等の22名の陸軍青年将校たちは、部下である千四百余名の下士官・兵を率いて反乱を起こした。これらの部隊は首相、蔵相、宮内大臣、侍従長、陸軍教育総監の官私邸、警視庁、朝日新聞社等を襲撃し、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた。元老の一人である西園寺公望、牧野伸顕前内大臣も襲撃の目標とされていたが、不成功に終わった。岡田啓介(海軍大将)首相は、新聞などでは即死を報ぜられたが、のちになって秘書官の身代わりによって助かったことが判明。反乱部隊は首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部を含む永田町一帯を占拠し、川島陸軍大臣と交渉して己たちの「要求」を実現しようとした。(2019/03/21)


私の昭和秘史(8) 夢もロマンも漂っていた 昭和初期の“流れ”を変えたのは ダレだったのか 織田狂介
 昭和11年2月15日は夕刻早くから夜にかけて、降りしきる小雪が、やがて夜にかけて、私たちの住んでいた横浜の港街は、降りしきる小雪が、やがて夜には吹雪のように激しく荒れ狂っていた。私の父・彰次は、この年48歳、横浜市史員として市の電気局(現在の交通局)に勤務していた。私は小学校2年生(磯子小学校)、私の記憶によると、そのころの父は市電やバスの乗務員ではなく、確か磯子電気局で「監督」という職掌に就いていたことを覚えている。性格は温厚、妻や子たちに優しい人柄であり、そのくせ鼻下に髭を生やし、なんとない威厳を備え、私から云わせれば“自慢の父”そのものの人となりだったといえよう。(2019/03/20)


社会
私の昭和秘史(7) なぜか半狂乱となる 『2・26事件』の前後 織田狂介
 私は、なぜか戦後以来ずっと、毎年2月26日前後と8月15日になると、数日間というもの必ず決まって、どうすることもできない「躁」状態に襲われて、まるで半狂乱にひとしい状況となって家人を驚かせるのを常にしている。殊に8月15日の場合などは、昼日中から酒を飲みはじめ、ずっと熱病に冒されたような浮遊症状となり、それが深更にまで及ぶ。そして鶴田浩二の『特攻隊』の唄から、あれやこれや手あたり次第に記憶している演歌や、民謡とつづき、とどのつまりは、どういうわけなのか“ああ闘いの最中に思わずハタと倒れしを・・・”の森繁ブシによる『満州事変の唄』でザ・エンドとなって、失神したように眠って仕舞うのである。(2019/03/17)


社会
私の昭和秘史(6)昭和とはやはり妖怪の跋扈跋扈(ばっこ)した時代だったのか ――『2・26事件』と『太平洋戦争』と『特攻出撃』  織田狂介
 実は、ここから私のこの著書での本論がはじめられる。そして、単純明快にいってのけてしまえば、この本論の見出しのような存在への大きな疑問が、いまもなお燃え尽きぬまま残炎のように私の胸中にくすぶりつづけているということなのである。だから、率直にいって、私の『昭和史』とは、そのままこれらの「妖怪変化たち」との戦いそのものなのであり、事実、私の戦後の人生は、この戦いにあけくれ、そして今やもう70余歳、心身ともに“満身創痍”を横たえているということかも知れない。(2019/03/15)


みる・よむ・きく
ドキュメンタリー映画『 沖縄から叫ぶ 戦争の時代』 小野田明子
 こんなタイトルになるとは思いもよらなかったーと、2018年1月から10月までの沖縄そして、その周辺の島々を記録した湯本雅典監督が述懐する。それは、このドキュメンタリーを見る側にとっても、同じ思いだ。(2019/02/28)


社会
私の昭和秘史(5) 国華隊・渋谷大尉の遺書 『父に逢いたくば蒼天をみよ』 織田狂介
 こうした状況の中で、昭和20年6月11日午後5時10分。冒頭で述べておいたように鹿児島県知覧・万世の両陸攻基地から、最後の特攻隊となった11機が、沖縄に向かって飛び去っていった。日本陸軍航空隊による「最終の特攻出撃」が決行されていたわけである。文字どおり「往きてもはや再び還らざる第64振武隊国華隊」の若き勇士たちである。この時の情景を本稿冒頭で引用した神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』の文章の中から、再び紹介しておきたい。ちなみに触れておくが、このころ「特攻出撃」を決行していた航空機は、陸軍も海軍も、その殆どがボロボロの機体とエンジンとで、いずれも“廃棄寸前”のものばかりであったという。「飛ぶたびに鋲(びょう)がゆるみ、燃料タンクからは油が漏れる状況だった」というし、これらの特攻機を見送る地元の女子学生や近隣の主婦たちが、そうと知って涙と共に彼らの操縦席を「草花で埋め尽くし、手製の人形で飾ったのが、せめてもの死に赴く若者、少年兵たちへの精一杯のはなむけであったろう・・・」と、神坂次郎氏も、瞼をうるませながら書き綴ったに違いない。そんな情景を描写しているのが、彼の著書の中の短編の一文、『第11話・父に逢いたくば蒼天をみよ』である。(2019/02/21)


地域
アベノミクスを地方から考える 「これではおカネはまわらない」  小野田明子
 青森県は、自他ともに認める賃金の安い県だ。昨年は、鹿児島県より1円高く、762円で、ビリから2番目だった。自他ともに認めるとは、客観的に全国でも最も貧しい県だということと、主観的にも、経営者も「うちは苦しい経営なので、最低賃金で」と言い、労働者も「最低賃金でも貰えるならいい。会社がつぶれては困る」と応じる県民性にある。大企業は、数少なく、ほとんどが中小企業。しかも、親族会社となると採用も身内やその周辺だとすると、「労使関係」などという緊張関係は皆無といってよいだろう。はっきり言えば、日本で一、二番を争う安い労働力を提供している、都会から移住した者から見ると本当に人の好い県民なのである。(2019/02/21)


みる・よむ・きく
『反戦川柳句集「戦争したくない」を贈ります』を読む  小野田明子
梅雨空に「九条守れ」の女性デモ (2019/02/18)


社会
私の昭和秘史(4) 『特攻隊攻撃による戦略』と学徒出陣による悲劇的作戦の展開  織田狂介
 陸海軍を統括する大日本帝国大本営(参謀本部)の首脳たちは、すでに昭和18〜9年の段階で、はっきりと「日本軍の敗戦」が、もはや動かしがたい“事実”として認識していた。にもかかわらず、この敗色を一挙にハネのけて、なんとか太平洋上での優位を確保し、戦勢を挽回しようと躍起になって、その突破口となるべき秘策を確立しようとしていた。その初陣をうけたまっわったのは、主として昭和18〜9年の「学徒出陣」によって動員された大学、高等専門学校、旧制高校の学生たちであった。その第一陣が海軍予備学生と呼ばれた若者たちによる『神風特別攻撃隊』である。ときに昭和19年12月21日のことであった。これらの“必殺体当り作戦”は、まず米軍の猛攻が加えられて危急存亡の状況にあった比島のレイテ湾にウンカ(クモや蚊の如く)のように押し寄せていた敵艦隊、上陸用舟艇への攻撃に投入された。(2019/02/17)


社会
私の昭和秘史(3)戦士になれなかった私  織田狂介
 西鹿児島駅からバスに乗り、ざっと1時間30分余り、小高い丘陵を2,3箇所ほど越えると知覧の町に着く。JR指宿・枕崎線の喜入駅からもバスかタクシーで行く方法もあるが、いずれにしても鹿児島の南端、交通の便は決してよくないし、夕方も遅い時間帯になるともう帰りのバスはない。太平洋戦争が始まった年(昭和16年ごろ)に、この町の木佐貫原(こさぬいはら)という台地に陸軍の太刀洗飛行学校知覧文教所が開設された当時には、私鉄の南薩鉄道が唯一の交通機関だったといわれているが、すでにこれも廃線となって久しく、ともあれ、この知覧は薩南の涯ての山の中にひらけた静かな茶畑に囲まれた町として、そのまま残されているような不思議なところである。(2019/02/14)


社会
私の昭和秘史(2)名もなき野花にいまも可憐な涙露が宿るという ー『知覧特攻基地』からのプロローグ 織田狂介
 南無観世阿弥陀仏 南無観世阿弥陀仏 ・・・平成11年2月初めの某日、立春を過ぎたとはいえ、この南国の小高い草原を吹き抜ける風は、まだ凛として厳しい冷気に包まれており、山肌の緑もまだ燃え立つ前のひっそりとした静けさの中にある。私は今、この太平洋戦争終結以後の50数年前から抱き続けてきた切ない想いを、やっとのことで叶えるこのできた歓びと哀しみの、なんともいえぬ交錯した複雑な感覚をおぼえながら、鹿児島県の南端に近い「知覧」の土を踏みしめている。(2019/02/10)


社会
私の昭和秘史(1)はじめに「 英霊たちの慟哭」 織田狂介
 かつて自らをアウトサイダーのジャーナリストと呼ぶ硬派の社会派記者がいた。織田狂介のペンネームで名をはせたその人は、多くの仲間を特攻出撃で死なせた怨念を抱えながら、”戦後”を生き抜き、その闇を凝視してきた。彼の終生のテーマは「天皇とはいかなる存在か」であった。天皇代替わりの今年、彼の遺言ともいえる未発表原稿を遺族のご好意で本誌に掲載できることとなった。感謝したい。(日刊ベリタ編集長 大野和興)(2019/02/09)








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